11月28日 <親鸞が没する(1262年=弘長2)>

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757年前のこの日、親鸞は子の益方有房、娘の覚信尼、門弟の顕智・専海に見守られ没しました。享年90歳でした。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

親鸞といえば浄土真宗の開祖です。

その親鸞、藤原氏の末流にあたる日野有範(ひのありのり)の子として京都に生まれ、9歳で出家して比叡山にのぼり、29歳で法然の門弟となりました。法然といえば…浄土宗の開祖ですね。

1207年(承元元)に、法然の旧仏教勢力からの迫害により讃岐に流されますが、その時親鸞も越後に流されてしまいました。1211年(建暦元)に親鸞は赦免されますが、親鸞は同地に留まりました。のちに1214年(健保2)に妻の恵信尼を伴い、常陸に移り、東国の農民に教えを広めたのち、62〜3歳頃に帰京し、その後は著作活動に励むようになりました。

 

彼は、阿彌陀佛を信仰する気持ちを起こして念仏を唱えれば、その瞬間に極楽往生が約束される…と説きました。また、当Blogの管理人の小生のような罪深い悪人こそが、阿彌陀佛が救済しようとする対象であるという悪人正機説を力強く説いたのです。

そうした彼の教えは、多くの農民の信者を獲得しました。

その親鸞は、1262年(弘長2)のこの日、親鸞は子の益方有房、娘の覚信尼、門弟の顕智・専海に見守られ没しました。享年90歳でした。その翌日、遺体は京都東山の延仁寺で荼毘に付されました。そして、その訃報は、娘の覚信尼によって、当時、越後にいた妻の恵信尼に知らされました。

 

法然同様、親鸞自身もまた一宗を開く意思はありませんでした。ところが、彼が亡くなったのち、東国の弟子たちが下野高田に専修寺派(せんしゅうじは)を立て、親鸞の曾孫の覚如は本願寺派を立て、いわゆる浄土真宗の教団が形成されていったのです。

親鸞の著書は「教行信証(きょうぎょうしんしょう。正式には顕浄土真実教行証文類)」「「浄土和讃」など極めて多く。また弟子の唯円が師の思想についてまとめた「歎異抄」といったものが、後世に与えた影響は本当に大きいものでした。

その親鸞の晩年は、子の善鸞(ぜんらん)との確執もあり、必ずしも幸福ではなかったようですよ。

 

 

親鸞聖人のことはよく知らないけど、取っ付き易いものでその姿を垣間見た気分に浸りたい方に絶好の書籍があります。五木寛之さんの長編ですが、五木さんらしく飽きさせない語り口のお陰で一気に読破できます。小生にとっては、五木さんの描く、人間「親鸞」の生き様が感じられたのが面白かったですねぇ。

親鸞 単行本全6冊セット

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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