11月5日 <工場払下概則を定めました(1880年=明治13)>

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137年前のこの日、明治政府は、それまで殖産興業の名のもとに創設・運営してきた多くの官営工場を、軍事的産業に工場から漸次払下げるための「工場払下概則」を定めました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

明治政府の近代化政策における最重要課題は、欧米先進資本主義列強諸国と国際社会において肩を並べる強国をつくるための富国強兵策でした。経済面においては、それは欧米諸国の経済制度・技術・設備・機械などの導入による政府の近代産業の育成、すなわち殖産興業としてみられました。

具体的には、政府は幕府や諸藩の鉱山や工場を引き継いで官営事業とするとともに、それだけにとどまらず欧米からどんどん機械・設備を輸入し、外国人技師を招いて官営工場を設立・経営し、近代産業の育成に務めました。以下に事例をあげます。

  1. 旧幕府・諸藩から引き継いだもの:東京砲兵工廠(幕府の関口製作所)、横須賀海軍工廠(幕府)、長崎造船所(幕府の長崎製鉄所)、鹿児島造船所(薩摩藩)、三池鉱山(柳河藩、三池藩)、高島炭鉱(佐賀藩)、堺紡績所(薩摩藩)
  2. 新設したもの:板橋火薬製造所、大阪砲兵工廠、赤羽工作分局、深川工作分局(セメント製造所・不熔白煉瓦製造所)、品川硝子製造所、千住製絨所、富岡製糸場、新町紡績所、愛知紡績所、広島紡績所

このような殖産興業政策を推進したのは、1870年(明治3)に設置された工部省及び1873年(明治6)に設置された内務省でした。

 

大蔵卿大隈重信は、当初はこうした官営事業の振興など積極財政を展開しましたが、じきに財政難・正貨危機のため緊縮財政に転換したのです。その一環として大隈重信の提案で繊維・機械製作など赤字部門の官営事業の払下げ方針を決めました。

 

そうして1880年(明治13)のこの日、「工場払下概則」を定めました。

この概則では、財政投資の回収を重視し競争入札、営業資本の即時上納など条件を厳しくしたため、払下げはほとんど実現しませんでした。

 

1881年(明治14)に参議兼大蔵卿の松方正義を中心に財政の立て直しを図り、1884年(明治17)には希望者の多い鉱山の払下げ方針を決定する一方、この概則を廃止して個別に払下げ条件を決めることとし、随意契約で、しかも投下資本の1/3以下の価格で無利子、かつ25〜55年賦という破格の条件のもとで官営事業の払下げが本格化していきました。

この払下げは、三井・三菱などの特定の政商を相手に行われ、のちの財閥形成の基礎となったのでした。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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