11月7日 <帝国議会議事堂が落成(1936年=昭和11)>

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1936年(昭和11)のこの日、総理大臣の広田弘毅、衆議院議長、貴族院議長など約2,800人の来賓を迎えて、帝国議会議事堂の落成式が行われました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1936年(昭和11)のこの日、総理大臣の広田弘毅、衆議院議長、貴族院議長など約2,800人の来賓を迎えて、帝国議会議事堂の落成式が行われました。

1920年(大正9)1月に当時の総理大臣の原敬などが参列して地鎮祭を行ってから、17年もの歳月を掛けた大プロジェクトが完成を迎えたのでした。総工費は、完成当時の金額で2573万5977円、工事従事者は延べ254万人でした。この2573万円というのは、当時映画館の入場料が30-40銭だったことを考えると

25,735,977円×(1,800円÷0.3円)=154,415,862,000円(1,544億1,586万2,000円)

という感じでビックリの1,544億円の大工事でした。

 

実は、この議事堂が出来るまで、「本議事堂」はわが国にはなかったのです。何度か火事で焼失した議事堂は全て「仮議事堂」でした。

 

1886年(明治19)、内閣に臨時建築局が設置され、エンデやベックマンらドイツ人の建築家を招いて諸官庁の集中化計画に当たらせましたが、議院建築は木造の仮議院を建築しただけに終わりました。ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーらの設計によるこの木造による第一次仮議事堂は、第一回帝国議会の開催に合わせて1890年(明治23)11月に完成されましたが、何とその会期中の1891年(明治24)1月に漏電による出荷で全焼してしまいました。

 

さぁ、大変です。帝国議会中に議事堂が無くなってしまいました。そこで、華族会館、帝国ホテル、東京女学館などの建物を借りてその会期は議事を進めました。

 

そして、ドイツ人建築家オスカール・チーツェの設計による第二次仮議事堂が1891年(明治24)10月30日に完成します。ところが、この第二次仮議事堂も1925年(大正14)9月に改修作業の際の火の不始末でこれまた焼失してしまうのです。一度ならず二度までも…

 

実は、この第二次仮議事堂が焼失する前に、本議事堂建築の動きは始まっていました。1906年(明治39)には本格的な議事堂の建築が決まり、1910年(明治43)には議院建築準備委員会が設置されましたが、議院の建築は実現しませんでした。そして1918年(大正7)大蔵省に臨時議院建築局が設けられ、同局工務部長矢橋賢吉らが、公募によって集まったデザイン案のうちの最優秀作品に大幅に手を加え、現在の議事堂の意匠が決まったのでした。着工したのは1920年(大正9)のことでした。

 

話は前後します。1925年(大正14)9月に焼失した第二次仮議事堂に代わる、第三次仮議事堂が同年12月に完成されます。何と3花月の突貫工事でした。

 

そうして、様々な出来事を経て、わが国初の「本議事堂」が完成したのが、1936年のこの日だったワケです。

 

話は、これでは終わりません。

 

 

 

議院のセンセイ方が、喧々諤々議論をする為に作られたこの議事堂を先に味見していた連中が居るのです。1936年(昭和11)2月26日に起こった2.26事件で、反乱軍の一部兵士が工事中の議事堂を占拠し、宿泊していたのでした。2月といえば、東京でも厳寒の季節です。兵士たちは議事堂の中で火をたいて暖をとったそうです。

オレ様が一番!と思って議事堂を使ったセンセイ方でしたが、実は使用済みの場所もあったのですねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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