11月7日 <建武式目が制定され、室町幕府が成立(1336年=建武3)>

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681年前のこの日、建武式目が制定され、室町幕府が成立しました。この建武式目は、中原章賢(なかはらのりかた)ら8人が足利尊氏の諮問に対する答申書の形式をとった法令で、幕府を開く場所や政治のあり方など幕府の基本的な施政方針が述べられています。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1333年(元弘3)5月、鎌倉幕府が滅亡しました。

隠岐島(おきのしま)に流されていた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は伯耆(ほうき)をあとにし、途中、光厳天皇(こうごんてんのう)の廃位を宣し、京都に戻りました。ここに後醍醐天皇を中心とする公家政権が誕生したのでした。平安時代以来なので、公家による政権は約150年ぶりでした。

後醍醐天皇は、天皇政治の理想的時代といわれた醍醐・村上天皇の治世を模範として新しい政治を行いました。これが建武の新政、あるいは建武の中興と呼ばれるものです。

 

ところが、様々な理由で(今回の記事はこの点に深く触れるものではないので…)建武の新政はうまく行きませんでした。

そして、その新政への不満は、地方武士の反乱として噴出していきました。その最大のものが北条時行(ほうじょうときゆき)の中先代(なかせんだい)の乱でした。

1335年(建武2)、北条高時の遺児時行は信濃で挙兵して武蔵に進出し、足利直義の軍を破って父祖の地の鎌倉を占拠したのです。

足利尊氏は東下の許可と征夷大将軍への任命を天皇に求めましたが、天皇は要請を却下しました。尊氏は勅許を得ぬままに兵を率いて京都を出発し、各所で北条軍を破って鎌倉を奪回、ついに新政府に反する態度を明らかにしました。

新政府は、尊氏を討伐するために新田義貞を派遣しました。新田氏は足利氏と出自を同じくする源氏の名門ですが、鎌倉時代を通じて恵まれない状況にありました。後醍醐天皇はそうした不遇の義貞に注目して新務府で重要な地位を与え、尊氏を牽制する役割を担わせていました。

1335年(建武2)12月、足利軍と新田軍は 箱根の竹ノ下に戦い、敗れた義貞は京都へ敗走しました。尊氏はこれを追いかけて西上し、京都に進入しました。

1336年(建武3)、尊氏は奥州から上京してきた北畠顕家らに敗れ、いったん九州に落ち延びました。九州は足利氏とは縁のない土地でしたが、武士たちは次々に尊氏のもとに馳せ参じました。勢いを盛り返した尊氏は、大軍を率いて東上し、1336年(建武3)5月の摂津の湊川の戦いで楠木正成を戦死させ、遂に京都を制圧しました。

 

尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう:在位1336-48)を擁立しました。

 

ついで同年のこの日、当面の政治方針を明らかにした建武式目を発表しました。このとき、幕府をどこにおくかが論議され、新政府と絶縁して鎌倉に武家だけの政権をつくろうという直義の意見は多くの賛同者を得ましたが、結局は京都での幕府の樹立が決定されました。

この建武式目は、公家勢力の本拠地である京都に幕府を開くためには、幕府の理念・施策も変えるべき…と進言するもので、鎌倉幕府の御成敗式目のような法令ではありませんでした。形式は答申書ではありますが公布されたそうです。内容は

  1. 幕府を鎌倉におくか京都に移すか → 鎌倉からの移転は世論にしたがうべきこと
  2. 今後の政道にどのような法を採用すべきか → 政道に関しては17ヶ条を進言

17ヶ条の中には、京都の治安回復・経済活動の保護、守護を行政能力により任用すること、寺社訴訟の抑制、などなど…といった内容があります。政治の理想像として、鎌倉時代の執権政治とともに、公家政権側の理想である延喜・天暦の治も重視しています。

 

1336年(建武3)11月7日、建武式目制定の日をもって、室町幕府は成立したのでした。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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