12月2日 <翌年から太陽暦を採用するので、今日が大晦日です(1872年=明治5)>

スポンサーリンク

1872年(明治5)のこの日、翌年から太陽暦を採用するのに合わせて大晦日とされました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

1872年(明治5)当時、明治新政府には深刻な問題が発生していました。それは、政府の財政状況が逼迫していた、ということです。

 

その頃は、日本は太陰太陽暦を採用していました。その太陰暦には閏年があります。現在の1日だけ増える閏年とは異なり、閏月といい、例えば10月の次に閏10月があって1年が13ヶ月となるのです。明治政府の官吏の報酬は月給制だったので、閏年には13ヶ月分の給与を政府は支払わねばなりません。その前回の閏年は1870年(明治3)で、まだ藩が存在していたので、給与の支払い者は藩であり、明治政府の財政はそれほど痛痒を感じませんでした。来年1873年(明治6)年は閏年で、1871年(明治4)の廃藩置県で藩が消滅していたため、官吏に払う13ヶ月分の給与に支払い者は明治政府だったのです。

 

しかし…政府の財布は…上記した様に逼迫していたのです。給与の支払い月が1ヶ月多くても、政府の収入が増えるワケではないので、どこかでその1ヶ月分を捻出しなければなりません。そこで、政府は果敢にある策を断行しました。

 

1872年(明治5)11月9日に「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」という太政官布告によって、従来の太陰太陽暦を廃して、1873年(明治6)から太陽暦を採用するとしました。そうすることで、閏月はなくなり12か月分の給与支給で済むのです。同年12月3日が、太陽暦による1873年(明治6)の元旦であったため、今日は、それまで採用されていた太陰太陽暦であった天保暦の最後の日で、太陽暦での1872年(明治5)の大晦日となったのでした。

 

この新暦採用のスーパーな効果は1873年(明治6)の給与を12ヶ月で済ませただけではありませんでした。

 

1872年(明治5)12月は稼働日が2日しか無かったので、給与の支払いを免れたのです。すなわち1872年の給与支払いは11ヶ月分のみで済ませられたのです。翌年の閏月の分とあわせて2ヶ月分の給与を削減させらたワケでした。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする風習があり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であったそうです。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができたのです。

 

太陰暦から太陽暦に改める事によって、明治政府は短期的に2ヶ月分の給与を払わずに済ませられ、しかも官吏の休業日を144日→51日に減らす事が出来たのです。

 

当時、岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)らは、条約改正の交渉の為に欧米諸国をまわっていました。日本国内の留守は大隈重信や西郷隆盛らが預かっていました。

 

岩倉具視たちは、欧米諸国の官吏を相手にする時は太陽暦を、日本人同士の間では太陰暦を使っており、その使い分けの面倒さにはほとほと参っていました。そんな時に、日本国内での対応を知り「その手があったか!」と気付き、国内の果断な処置に驚いたそうです。

 

ちなみに、当blogの記事も1872年までは太陰暦で、1873年以降は太陽暦です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
12月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!