12月21日 <足利義満、大内義弘を堺に討つ(1399年=応永6)>

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1399年(応永6)のこの日、足利義満は大軍を率いて、堺に立てこもった大内義弘を攻めて城を陥落させ、義弘は討死しました。いわゆる応永の乱です。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

室町時代は第3代将軍の足利義満の頃に政権として安定期に入り、諸国の武士たちも幕府が派遣した守護の指揮下に組み入れられていきました。

義満は奉公衆と呼ばれる5部隊からなる直轄軍を持っており、その優勢な軍事力を背景に諸国の守護の統制を図りました。統制といっても、有力守護の力を削いだり滅ぼしたり、ということなんですけどね。その大きなものが以下の3つの戦いでした。

  • 1390年(明徳元):土岐氏の乱…3ヶ国の守護だった土岐氏を討伐し1ヶ国に封じ込めた。
  • 1391年(明徳2):明徳の乱…11ヶ国の守護で六分の一殿と呼ばれた山名氏清を討ち、3ヶ国に縮小させた。
  • 1399年(応永6):応永の乱…朝鮮貿易で権勢を振るっていた大内義弘を攻め滅ぼした。

今回の記事は、この1399年(応永6)に起こった応永の乱のことです。

 

周防・長門国の守護であった大内義弘は港湾都市の堺と博多を掌握し、朝鮮などの外交・貿易に独占的な地位を築き、そこから大きな利益を上げていた実力者として重きをなしていました。足利義満は、大内義弘の勢力の巨大化を警戒し、その関係は不穏をなっていきました。

そして、義満は謀略によって義弘を追い詰め反乱を起こさせたのです。そして堺に立てこもった義弘を、1399年(応永6)のこの日、攻め滅ぼしました。

 

そうして、義満は、足利一門以外の有力守護の勢力削減に成功し、対外貿易の主導権も得ることが出来ました。

 

この攻め滅ぼされた大内義弘でしたが、弟の大内盛見(おおうちもりみ)はその応永の乱の時は在国しており、足利義満もそれを鎮圧できず、周防・長門両国の守護職を与えました。大内氏はその後も続き、キリシタン大名として有名な大内義隆もその末裔なんですよ。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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