今日という日はどんな日でしょうか?
日本史の中の出来事を覗いてみましょう。
1656年(明暦2)の今日、江戸幕府は江戸葺屋町一帯にあった吉原遊郭に、浅草への移転を命じました。
吉原は江戸の遊郭でしたが、1618年(元和4)に、それまで市中に散在していた売春宿を日本橋の葺屋(ふきや)町に集めたのが始まりです。葺屋町というのは、屋根を葺く職人がたくさんいたことからつけられた町名です。この葺屋町の東隣に、二町(約220m)四方の土地を与えられて開い たのが吉原遊郭でした。江戸の発展で市域が拡大したことにより中心部に近くなったので、浅草の先(現在の台東区千束4丁目)に移転させることに決まったのです。
当時、浅草は「浅草田んぼ」といわれるくらい寂しい場所でした。
遊郭の経営者たちは難色を示しました…
そこで、江戸幕府は格別の厚遇条件を提示しました。
- 遊郭の敷地を今までの50%増加の1.5倍とする。
- 夜間営業を許可する。
- 移転料として15,000両(現在の貨幣価値で1,500,000,000円、15億円!)出す。
- 江戸の市中にある二百数十軒の風呂屋を潰す。
第4項について補足です。当時の、風呂屋の二階には湯女とよばれる入浴の世話や酒食の接待をする女性がいたのでした。この湯女が、新しい吉原遊郭の営業妨害になるのを未然に防ぐのが目的でした。
この移転準備をしているとき、年が変わってすぐ1657年(明暦3)1月に江戸に「明暦の大火」と呼ばれる大火事が発生しました。この火災で、今までの日本橋葺屋町の吉原は全焼してしまいました。復興計画のかじ取りをしたのは、老中松平信綱でした。信綱は、江戸に防災対策を施すために、遊郭だけでなく寺社もあちこちに移転させ、江戸中心部に防火地帯としての火除け地を作りました。
こうした偶然の災害も重なりましたが、旧吉原が、浅草に新しい土地を貰い、また、いろいろと優遇条件が付け加えられていたのは、一種のラッキーでした。そうして移転した新吉原は、旧吉原がそうであったように、浅草田んぼに怒然と出 現した不夜城は、その後江戸の大評判になり、多くの粋人たちが押しかける大歓楽街町になりました。
新吉原は、約2万坪で、周囲に溝を設け、出入りは大門の一方口でした。外観上も周囲とは異なった特別な区域となっていました。仲の町(なかのちょう)と呼ばれる中央の広い道路で左右を二分し、江戸町・京町・角町など5町がありました。吉原には常に3,000人ほどの売春婦が居ましたが、幕末には退潮し、その後も存続したいました。1958年(昭和33)に施行された売春防止法の施行で消滅し、300年余りの歴史に幕を閉じました。
今日はここまでです。
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