12月5日 <冠位十二階の制が定められました(603年=推古11)>

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603年(推古11)のこの日、冠位十二階の制が定められました。

これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

その昔、小生が日本史を習った頃は、推古天皇の御代、聖徳太子がその超人的な政務処理能力をもって天皇を補佐し、冠位十二階の制や憲法十七条を作った…と教えられたものでしたが、最近は、若干異なる内容になっているようです。

推古天皇が即位した592年(推古天皇1)の翌593年(推古天皇2)、天皇の甥の厩戸王(うまやどおう。のちに聖徳太子と呼ばれる)が政権に参画し、ここに大王推古・厩戸王・大臣蘇我馬子の三者による共治による権力の集中が図られました。

彼ら三者は、王権の周囲に諸豪族を結集させることで権力を集中し、朝鮮諸国に対する国際的な優位性を確立しようとしました。

推古朝の諸政策のなかでも重要なものに、603年(推古天皇11)に制定された冠位十二階の制と、翌604年(推古天皇12)に制定された憲法十七条とがあります。

とこんな感じの説明がされるワケです。

厩戸王についても、

厩戸王がついたとされる皇太子という地位、摂政という職位は、当時はまだ成立していませんでした。厩戸王は有力な大王位継承資格者として政治に参加したのです。ただし、推古朝の諸政策に厩戸王がどれほど主体的に関与していたかは議論が分かれるところです。

厩戸王については、早い時期から伝説が出来上がり、聖徳太子という呼称も生まれていました。結局、推古天皇よえい先に世を去り、即位することはありませんでした。後世には太子信仰も生まれ、庶民の間にも浸透して行きました。

と、こんな風に、取扱が随分と変わったものです。

さて、今回の記事は冠位十二階の制についてです。

これは、我が国初の冠位で、603年(推古11)に定められました。徳・仁・礼・信・義・智という儒教的な徳目をそれぞれ大小に分けて十二階とし、紫・青・赤・黄・白・黒の六色の冠を授けたものです。冠位はそれまで氏族ごとに賜って世襲された姓(かばね)とは異なり、個人の才能や功績、忠誠に応じて授けられたもので、その官人一代限りで、また功績によって昇進することも可能でした。

この制度によって、我が国の支配者層は、氏姓制度の世襲制を打破し、新たな人材を登用できる様になったのです。鞍作鳥(くらつくりのとり)・秦河勝(はたのかわかつ)・小野妹子(おののいもこ)らは、この冠位十二階の制によって見出された人物なのです。

なお、こうした冠位を授けられたのは、中央豪族のうち、大夫(まえつきみ)層以下の階層であって、大臣家としての蘇我氏や王族、さらに冠位授与の枠外にありました。

この冠位十二階、官職ではなく個人を冠の授与によって格付けするのは、中国ではなく朝鮮三国の制度を受け継いだもので、遣隋使などの外交展開にあたって、外交の場で使節の身分を示す必要もあった、という背景も見逃せません。

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

今日はここまでです。

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