2月18日 <日本初の蘭日辞典「ハルマ和解」成稿(1796年=寛政8)>

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1796年(寛政8)のこの日、蘭学者稲村三伯(いなむらさんぱく)らは日本最初の蘭日辞典を完成させました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

日本は、江戸時代、キリスト教禁止・限定的な開国状態であったため、西洋の学術・知識の研究は困難を極めましたが、長崎出島のオランダ人などを通じて次第に学ばれていきました。そうしたこともあり、西洋の学問(洋学)はまず蘭学として発達していきました。

洋学をいち早く取り入れたのは、実用の学問(実学)としての医学や科学技術でした。

1774年(安永3)、前野良沢(まえのりょうたく)・杉田玄白(すぎたげんぱく)らが、西洋医学の解剖書「ターヘル・アナトミア」を訳述した「解体新書」を出版するという画期的な成果を生み、玄白はその経緯を「蘭学事始」に著しました。蘭学はこれを機に発展期を迎え、医学・本草学・天文学・地理学などの各分野で発展していきました。

 

このように蘭学が盛んになってくると、オランダ語の辞書が求められる様になりました。

長崎通詞の西善三郎は、晩年、マーリンの蘭仏辞典から蘭日辞書の編纂を企画・着手しましたが、編纂作業中に病没し未完成に終わりました。

鳥取藩医の稲村三伯は1792年(寛政4)に大槻玄沢の芝蘭堂に入門し、玄沢に辞典の翻訳を頼みましたが、多忙のために断られ、そのかわり元通詞の石井垣右衛門を紹介されました。垣右衛門は、西善三郎の遺志を継いで編纂事業に当たっていた人物でした。

三伯は、玄沢から借りたハルマの蘭仏辞典を垣右衛門に訳出してもらい、宇田川玄随(うだがわげんずい)、岡田甫説・宇田川玄真(うだがわげんしん)の協力を得て辞書を編纂し、1796年(寛政8)のこの日、日本最初の蘭日辞典「ハルマ和解」が出来ました。その後、順次30部が刊行されました。

 

題簽(だいせん。表紙に題名などを記してはる細長い紙片または布片のこと)には、

<F.HALMA,NEDERDUITS WOORDENBOEK>

とあり、和書名はありません。門人藤林晋山の著作の跋文(ばつぶん。あとがきのこと)に、三伯自身が「波留麻和解」という名称を記しています。

 

この辞典、フランソワ・ハルマの「蘭仏辞典(1792年第2版)」を原典としており、見出し語のオランダ語は活版印刷を用い、日本語は毛筆で縦書きというものでした。その為、全13巻(27巻本もあり)の発刊は成稿の2年後の1798〜9年(寛政10〜11)に掛けてでした。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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