2月26日 <日本陸軍の青年将校らがクーデターを起こしました。二・二六事件(1936年=昭和11)>

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1936年(昭和11)のこの日、日本陸軍の青年将校ら約1,500名がクーデターを起こし、大蔵大臣高橋是清・内大臣齋藤實らを殺害しました。世にいう二・二六事件です。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1930年代半ば頃から、軍部、とくに陸軍の政治的発言力は大きくなっていました。その陸軍の中でも、いわゆる皇道派と統制派とを中心とした派閥の対立が激しくなっていました。

 

皇道派とは、荒木貞夫、真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)らを中心とするグループで、天皇中心の革新論を唱え、元老・重臣・政党・財閥など「現状維持勢力」を強く排撃しました。北一輝(きたいっき)の思想的影響を受けた急進的な青年将校らが、この皇道派に集まっていました。

一方、統制派とは、陸軍全体の統制を強化し、その組織的動員によって高度国防国家をめざす諸般の革新政策を実行しようとするグループで、林銑十郎(はやしせんじゅうろう)、永田鉄山(ながたてつざん)を中心に、中堅の実務的な、陸軍大学校(陸大)出身の幕僚と呼ばれた軍人が多くこの統制派に属していました。このグループは、皇道派が排撃していた現状維持勢力を上手く利用しようとする考え方でした。

 

荒木貞夫が陸相だった時(1931〜34年)には、皇道派の動きが活発でしたが、荒木に次いで林銑十郎が陸相になると、永田鉄山を事務局長に起用して皇道派を抑えるという具合に双方の派閥の対立が顕在化していました。

 

1936年(昭和11)2月26日、東京は曇りのち雪の朝でした。「昭和維新・尊皇討奸」を目指す陸軍皇道派系の青年将校たち(大尉・中尉・少尉といった尉官級将校が主力)が、約1,400名余りの兵を率いてクーデターを起こし、首相・蔵相・内大臣・教育総監・侍従長などの官・私邸、警視庁などを襲撃し、蔵相高橋是清・内大臣齋藤實・教育総監渡辺錠太郎らを殺害し、東京の永田町一帯を4日間にわたって占拠しました。兵の内訳は将校20名、元将校2名、准士官1名、下士官88名、兵1,357名でした。

 

この事件は、正規軍による反乱であり、また西南戦争以来、最大の国内事件でした。

 

一時は岡田啓介首相の死亡も伝えられて東京は大混乱におちいりましたが、岡田首相は混乱の隙に女中部屋の押入れに隠れ、妹婿で秘書の松尾伝蔵が身代わりで殺されました。これは、松尾伝蔵が岡田啓介に容姿が似ていて、その殺害された際に前額部を銃撃されたため、容貌が判別出来なかったことが幸いしたそうです。

 

陸軍当局は、当初、この事件に対して

「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基ク モノト認ム」

という文言の含まれた「大臣告示」を作成して反乱軍の説得を試みようとしました。ところが、天皇は事件の勃発、斎藤実らの殺害を報告されると激怒し、行動部隊を反乱部隊とし、みずから近衛師団を率い、討伐するとさえ仰せだったそうです(『本庄日記』)。この天皇の断固たるご意志が、反乱軍と妥協を求めていた陸軍首脳に決定的衝撃を与えました。

 

そして、2月27日午前8時50分、東京市に戒厳令が施行され、28日午前5時8分に、反乱軍は原隊に帰れと命ずる奉勅命令(天皇御自ら下す統師命令)が下されたのでした。事態は、杉山元参謀次長・石原莞爾(いしはらかんじ)作戦課長の統帥(参謀本部)の首脳が指導権を握り、討伐・鎮圧へ動きました。

 

杉山元参謀次長ら統師部は鎮圧のため、原隊に残留した兵力と、地方の連隊を上京させ、戦車を先頭に反乱軍を包囲し、攻撃を断行しようとしました。その当時の言葉で「皇軍相撃」となりそうな状況でした。

 

これを回避するため、ビラで帰順を勧め、また「下士官、兵に告ぐ」というラジオ放送をもって、将校と下士官・兵との分断を策しつつ、反乱軍将校に自決の強要を中心に交渉した結果、遂に2月29日午後、反乱軍は帰順しました。将校は逮捕さ れ、渋谷区宇田川町にある陸軍衛戌刑務所に収監されました。こうして事件は四日間でおさまりました。

 

1936年(昭和11)3月4日、緊急勅令により特設陸軍軍法会議が設置されました。それは「一審制、上告なし、非公開、弁護人なし」でした。侍従武官長本庄繁大将の3月4日の日記(『本庄日記』)には「反乱軍将校は寝襟を悩まし、軍人勅論に背き、国体を汚し、その明徴を傷つけたと、天皇が断定された。」といった内容の記述があります。同年7月5日に判決が下り、死刑17人、無期禁錮5人。下士官も禁錮15年を最高に15人が有期刑となり、執行猶予付きも含めると44人が有罪となりました。民間人の北一輝・西田税(にしだみつぎ)も死刑となったほか、地方連隊の将校からも有期刑者がでました。

 

事件後、寺内寿一陸相は粛軍と称して、いわゆる皇道派系の軍人を予備役編入や左遷にしました。代わって、梅津美治郎陸軍次官を主流とする統制派の軍官僚が陸軍の実権を握り、 流血の二・二六事件、粛軍人事を尊い犠牲と称し、事件のもつ武力への恐怖を利用して広田内閣の組閣に干渉したのでした。さらに軍部大臣現役武官制復活(1936年5月)など、政治発言を極度に強め、日中戦争の勃発(1936年7月)と拡大、国家総動員法の公布(1938年4月)という具合に、この事件は1945年(昭和20)8月の敗戦まで、 日本の政治・軍事に測り知れない影響を与えました。すなわち、この2.26事件に始まる陸軍の力の強大化は、その後、日本を破滅の道へと進ませたのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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