2月5日 <平維盛の子、六代御前が処刑されました(1198年=建久9)>

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1198年(建久9)のこの日、平家の嫡流平維盛の子の平高清が田越川(神奈川県逗子市)で処刑され、この六代御前こと高清が世を去ったことで、平清盛の嫡流は断絶したのでした。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今回の記事の六代御前(六代御前)は、本当は平高清(たいらのたかきよ)という名前があります。その六代というのは幼名で、平正盛から数えて直系の六代目に当たる、という理由で付けられた名前でした。

Wikipediaは平高清で説明をしていますが、山川出版社の辞典では平六代の項しかありません(高清では項目がないのです)。

 

1183年(寿永2)、平家は都落ちしてしまいましたが、その際、六代は一族に従わず母妹とともに京都に留まりました。そうして六代は京都普照寺奥大覚寺北に潜伏していましたが、平氏滅亡後の1185年(文治元)、北条時政に捕らえられ鎌倉に護送中、文覚上人の助命嘆願があって処刑を免れ、その身柄は文覚のもとに預けられ、のちに出家したのです。

本来であれば、六代は清盛の曾孫に当たることから斬首になるところでした。

この六代が九死に一生を得る話は、六代御前物語(ろくだいごぜんものがたり。観音利生宣布に唱導本か?〉や、平家物語、吾妻鏡などに残っています。

 

1189年(文治5)に出家した六代は、その後1194年(建久5)には政所の別当であった大江広元を介して源頼朝にも謁見しています。

しかし、1198年(建久9)のこの日、六代は田越川(現・神奈川県逗子市)にて処刑されてしまったのでした。

 

六代の死により、清盛の嫡流は完全に断絶し、その事は平家物語では「平家の子孫はながく絶えにけれ」と書かれています。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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