1754年(宝暦4)のこの日、山脇東洋は若狭小浜藩医小杉玄適ら3人の医者とともに、京都の六角牢獄の死刑囚の腑分けを行いました。これが日本最初の人体解剖でした。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代は、キリスト教禁止、鎖国状態であったため、ヨーロッパの学術・智識の研究や吸収は困難を極めました。そうした状況でも、長崎の出島にいたオランダ人などを通じて次第に情報は国内に入ってきました。
江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗は、実学と新しい産業を奨励するため、キリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入制限を緩和するとともに、青木昆陽(あおきこんよう)や野呂元丈(のろげんじょう)らにオランダ語を学ばせたので、洋学は蘭学として発達したのです。
そうした動きがいち早く取り入れられたのが、実用の学問としての医学や科学技術でした。漢方医学では、中国元・明時代の医学を重んじていた当時の流れに対して、臨床実験を重視する漢代の医術に戻ろうとする古医方(こいほう)が現れ、その流派の一人が山脇東洋でした。
山脇東洋は、実父は医師であった清水立安(しみずりゅうあn)でしたが、父の師で宮中の医官山脇玄脩の養子となり、1726年(亨保11)に家督を継ぎました。後藤艮山(ごとうこんざん)に 古医方を学び、1746年(延享3)には唐代の医学書「外台秘要方(げだいひようほう)」を復刻しています。そうした中国の古典や、ヘスリング著の解剖書を見て、東洋は五臓六腑説に疑問をいだき、人体解剖のチャンスを伺っていたのでした。
そして、ついにその機会が訪れました。
1754年(宝暦4)閏2月の今日、京都所司代の許可を得て、若狭小浜藩医小杉玄適ら3人の医者とともに京都の六角牢獄の死刑囚の腑分け(観蔵)を行いました。まぁ、正確に申せば、山脇東洋は立会・指導して実検したのですが、これが日本歴史に残る最初の人体解剖でした。
この解剖をもとに、山脇東洋は1759(宝暦 9)年にその成果として解剖図録「蔵志(ぞうし)」を著しました。古医方においても人体解剖の実施をめぐり賛否両論が起きましたが、その後の医学界に大きな影響を与えたことは疑いようのない事実です。
「蔵志」の刊行は、後年の前野良沢・杉田玄白らの腑分けに先立つこと12年前の事でした。 実は、杉田玄白は、上記した若狭小浜藩医小杉玄適の同僚でして、玄白は小杉玄適からこの人体解剖の話を聞き、大いなる刺激を受けたそうです。
この「蔵志」の観臓図は、解剖したのが刑死人であった為、頭部がなく胴体と四肢のみだったそうですが、内蔵の大きさ・色・形を正確に写したものだということです。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。
- 2018年記事:<一の谷合戦(1184年=元暦元)>
今日はここまでです。
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