3月17日 <上杉景勝、上杉景虎を滅ぼす。御館の乱(1579年=天正7)>

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1579年(天正7)のこの日、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が御館城(おだてじょう)を攻め、上杉景虎(うえすぎかげとら)を滅ぼしました。

これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

上杉謙信には実子がおらず、上杉景勝(魚沼郡上田の長尾政景と謙信の姉との子)と上杉景虎(北条氏康の子)という2人の養子が居ました。

1578年(天正6)3月13日に謙信が亡くなると、上田城に居た景勝は謙信の遺言と称して春日山城に入り、一方、景虎は同年5月13日春日山から府内の守護館(御館)に移って、ここに両者の抗争が始まったのです。

守護上杉氏の一族や本庄・神余・北条ら中越の国人は多くが景虎に、下越の国人や謙信取立ての武将は主に景勝に従い、越後の武士を二分した争いになってしまいました。

 

山内上杉憲政・武田勝頼らにより和睦も試みられましたが、景勝は憲政を亡き者にし、勝頼を味方として景虎を攻撃しました。景虎には北条氏政からの後援があり、また蘆名氏の介入もありましたが、1579年(天正7)のこの日景勝の攻撃を受け、御館城は陥落してしまいました。

景虎は御館城から落ちのびたものの。同月24日、亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主堀江宗親に攻められ、自らこの世を去る選択をしました。

 

景虎派の残党も、翌1580年(天正8)に投降し、この御館の乱は終息したのでした。

この乱の結果、景勝の権力基盤が飛躍的に強化され、上杉氏による越後の領国支配が確立したのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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