3月19日 <江戸幕府、五品江戸廻送令を布告(1860年=万延元)>

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1860年(万延元)閏3月のこの日、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の5品の輸出にあたっては江戸の問屋を通すことを命じる「五品江戸廻送令」が布告されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1858年(安政5)6月、日本は米国と日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結し、ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。これらを安政の五カ国条約と呼びます。

 

貿易は、1859年(安政6)から横浜・長崎・箱館の3港で始まりました。輸出入品の取引は、居留地において外国商人と日本人の売込商(うりこみしょう)と呼ばれた輸出品を売り込む貿易商や引取商(ひきとりしょう)と呼ばれた輸入品を買い取る商人との間で、銀貨を用いて行われました。

 

輸出入額は、3港のなかでは横浜が最大で、貿易相手国ではイギリスが圧倒的に多かったです。

 

日本からの輸出品は、生糸が80%に及び、ついで茶・蚕卵紙(さんらんし)・海産物などの半製品・食料品が多く、輸入品では、毛織物・綿織物などの繊維製品が70%を越え、ついで鉄砲・艦船などの軍需品が上位を占めました。

 

初めは輸出が多く、まもなく輸入超過となりましたが、貿易額トータルは急速に増大しました。それに刺激されて物価が上昇する一方、国内産業と流通に大きな影響が現れました、

 

まず、産業面では、輸出品の大半を占めた生糸を生産する製糸業などでは工場制手工業が発達しましたが、機械で生産された安価な綿織物の大量輸入が、農村で発達していた綿作や綿織物業を激しく圧迫していきました。

 

一方の流通面では、輸出商品の生産地と直接提携した在郷商人が問屋を通さずに直接商品を開港した地に送ったので、江戸をはじめとする大都市の問屋商人を中心とする特権的な流通機構は次第に破綻していきました。さらに、急速に増大する輸出に生産が追いつかず、江戸市中への消費物資の入荷が激減し物価高騰を招いてしまいました。

 

そこで、江戸幕府は、従来の流通機構を維持して物価を抑制するために貿易の統制をはかり、1860年(万延元)閏3月19日に雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服・生糸の5品は、横浜直送を禁止し、必ず江戸の問屋を通して、国内の需要を考慮したのち江戸問屋の買取品のうちから輸出する様に命じました。これを五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)と呼びます。

 

この命令は、1863年(文久3)9月27日にもその励行を促しており、生糸を除く4品は相当の効果がみられたようですが、最大の輸出品である生糸は在郷商人の抵抗と、条約に定められた自由貿易を妨げる措置であるとする列強の抗議にあい、幕府の貿易統制は後退を余儀なくされました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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