3月25日 <シーボルト、将軍徳川家斉に謁見(1826年=文政9)>

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1826年(文政9)のこの日、オランダ商館医師のシーボルトは、商館長の江戸参府に随行し江戸幕府第11代将軍徳川家斉に拝謁しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1823年(文政6)8月8日、オランダ船の三人姉妹号が長崎にやってきました。その甲板から、見る物何もかもが初めての異国の風物に目を輝かせながら出島に降り立った青年が居ました。それが、のちに「日本の洋学の恩人」といわれた27歳の医師シーボルトでした。

 

シーボルトは一家一族が医者揃いという家庭環境に生まれ、20歳でヴュルツブルク大学に入り、医学のほかに植物学・動物学・地理学・人種学などを学び、在学中から東洋研究の希望を抱いていました。東洋研究は、当時アジアに広大な植民地を持っていたオランダの国家的要請でもあったのです。

 

シーボルトは1820年に大学を卒業してドクトルの称号を得たのち、1822年7月オランダ東インド陸軍病院外科少佐に任命され、バタビアを経て日本の長崎出島のオランダ商館付医官として赴任したのでした。

 

シーボルトの学識はたちまち知られ、翌1824年(文政7)、長崎町内の吉雄塾・楢林塾に出張して診療を行い、門人を集め、臨床講義を行いました。そして特別のはからいで長崎郊外の鳴滝に診療所兼学塾を開くことを許されました。この鳴滝塾に入門した者は、湊長安・美馬順三・平井海蔵・高良斎(こうりょうさい)・二宮敬作・石井宗謙・伊東玄朴(いとうげんぼく)・高野長英(たかのちょうえい)・小関三英(おぜきさんえい)・戸塚静海(とつかせいかい)ら57人に対 し、医学・万有学の講義を行いました。

 

生徒たちの出身地は九州から東北地方まで19ヶ国におよび、その殆どが医家ないし医学志望の学生でした。その年令も20〜30歳までのものが大部分であり、塾内は向学心に燃える若く溌剌とした雰囲気に満たされていたそうです。その時の事を後年シーボルトは著書でこの様に語っています。

 

「鳴滝は欧州の学術を信奉する日本人の集合所となり……その一小天地よりして科学的開発の新光明が四方に放射した」

(シーボルト著江戸参府紀行」から引用)

 

1826年(文政9)正月、シーボルトは長崎を出発、新任商館長とともに江戸参府の途につきました。高良斎・二宮敬作・石井宗謙・川原慶賀が従行しています。3月4日江戸に着き、1826年(文政9)3月25日将軍徳川家斉に謁見しました。

 

江戸では、その高名を耳にして待ち焦がれていた人は多く、江戸に着く前日の3月3日には薩摩前藩主島津重豪(しまづしげひで)が大森まで出迎えたほどでした。そして同年4月12日に江戸を出発するまでの間に、桂川甫賢・宇田川榕菴(うだがわようあん)・大槻玄沢(おおつきげんたく)・石坂宗哲・高橋作右衛門(景保。たかはしかげやす)・最上徳内(もがみとくない)・土生玄碩(はぶげんせき)など多くの学者と面会して交流を深めています。

 

とくに高橋・土生・最上とは音信贈答を重ね、これがのちのシーボルト事件の原因となりました。

 

3.シーボルト、ちょっといい話

 

 

シーボルトが研究生活の大半を過ごしたのは出島のオランダ商館でしたが、家庭的な潤いを丸山の遊女其扇(そのき。楠本お滝)との同棲に求め、1827年(文政10)その間に女子いねが生まれました。

 

シーボルトはこの母子を深く愛し、お滝もまたシーボルトを敬愛してよく仕え、シーボルト事件が起きたときも、たびたび奉行所に呼び出されて尋問を受けましたが、かたく口をとざしてシーボルトに不利になるようなことは話さなかったそうです。

 

1859年(安政6)にシーボルトが再来日したとき、娘いねは産科医としてりっぱに成人しており、その姿をみたシーボルトは涙を流して喜んだ、といわれています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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