4月13日 <小学校の教科書が国定に(1903年=明治36)>

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1903年(明治36)のこの日、「小学校教科書は原則として文部省が著作権を持つものに限る」と定められ、翌1904年(明治37)4月から修身・歴史・地理・国語・図画の国定教科書が使われる様になりました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1890年(明治23)に発布された教育に関する勅語〈教育勅語)は、政府の国家主義的な教育理念を広く国民に示したものでした。

これは井上毅(いのうえこわし)元田永孚(もとだながざね)らによって起草されたもので、儒教的な家族主義の道徳と近代的国家主義に基づく愛国の理念とを基礎に、「忠君愛国」「忠孝一致」を教育の基本として強調しているものです。これによって、天皇は単なる政治的主権者であるばかりでなく、国民の道徳的・思想的中心とされました。この教育勅語は学校で奉読することによって大きな効果を発揮しました。

 

 

余談ですが、この教育勅語は奉読されたものを拝聴するのが基本であり、どこかの学校でやっていた様に、子供達が恐れ多くも朗読するようなものではありません。それをやらせた某幼稚園の指導者は、教育勅語の有り様を理解していない、と言わざるを得ないと思います。

 

さて、話が脱線してしまいましたね。

この教育勅語の理念を、教育を通じて徹底するために、1896年(明治29)には貴族院が修身教科書の政府による直接編集し、教育内容を一方的に定める教科書の国定化を建議し、国定教科書の検討が始まりました。衆議院でも1901年(明治34)にすべての教科書の国定を建議しました。

一方文部省でも、1900年(明治33)4月に修身教科書調査委員会を設けて国定化の準備を進めていましたが、1902年(明治35)に発生した教科書疑獄事件を口実として、1903年(明治36)のこの日、国定化に踏み切りました。

その結果、小学校は1904年(明治37)以降、中学校でも1943年(昭和18)以降それぞれ1949年(昭和24)まで国定教科書が使用されました。

 

こうした国定教科書は、戦前の天皇制教育をすすめるにあたって、教育を通じて国民思想を統一・支配する中核的な役割を果たしました。

 

それと、上記の教科書疑獄事件について触れておきましょう。これは、小学校教科書の採用をめぐる贈収賄事件です。

1890年(明治23)以降、小学校教科書は民間の教科書会社が編纂し、文部省n検定を通過したものから、各府県の図書審査委員会が撰定することになっていました。審査委員会での採用は、その府県での自社の教科書が独占的に使用されることを意味したことから、各教科書会社は激烈な売り込み合戦を展開してしまったのです。

1902年(明治35)暮から翌年にかけて教科書会社、県知事(宮城・栃木・新潟・島根・宮﨑)、審査委員などが全国各地で摘発され、有罪者は100名を越える一大疑獄事件となったのでした。

その結果、1903年(明治36)菊池大麓(きくちだいろく)文相が辞任し、本日の記事の国定教科書制度が採用されたのでした。

 

この国定教科書制度は、修身教科書などを通じて、広く国民に国体観念を植え付けることになり、教育勅語とともに天皇を中心とした国家体制を内面から支える役割を果たしました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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