4月14日 <対馬藩、雨森芳洲を召し抱える(1689年=元禄2)>

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1689年(元禄2)のこの日、雨森芳洲は師木下順庵の推挙によって対馬藩に仕えました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、江戸時代中期の儒学者です。

 

1668年(寛文8)に近江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県長浜市高月町雨森)で生まれ、1685年(貞享2)頃…だから17〜8歳の頃に江戸に出て朱子学者の木下順庵門下に入りました。

 

1689年(元禄2)4月14日に、木下順庵の推挙によって対馬藩に仕え、同藩の文教を掌りました。対馬では、常に韓人と応接し、通訳なしに会話することができ、韓国語の研究にも成果を上げています。その頃の対馬藩は、中継貿易で潤沢な財力をもち、優秀な人材を探していたので、語学堪能で頭のキレる雨森芳洲は、まさに願ったとおりの人材だったのです。

 

江戸で木下順庵の門下に居た時は、新井白石とも同門でしたが、二人の交遊は折が合わなかったみたいです。特に、1711年(正徳元)に新井白石が主導して行った朝鮮通信使の以下の待遇改訂を

  • 待遇簡素化
  • 将軍の呼称を日本国王に変更

行った際に、白石と芳洲とは完全に対立した状態になり、それ以降二人の交流は絶えてしまったそうです。この待遇改訂が、朝鮮通信使の来日直前に一方的に通告された、というのも問題を大きくした要因であったことは間違いなさそうです。何事も根回し、段取りが必要ですね。朝鮮通信使からの芳洲の評価は高く、「当代の日本の文人としては新井白石よりも優れている」と言うメンバーも居た、ということです。

 

それまでは、中国や朝鮮の文化に目を向けてきた芳洲でしたが、81歳になったとき、はじめて和歌の道を志しました。その時の目標がすごいのですよ。

  • 「古今和歌集」を1,000回読む
  • 自ら10,000首の和歌を詠む

なんと数年もかからずに、目標を両方ともクリアしたそうです。真面目で勤勉だったんですね。

 

 

雨森芳洲の楽しい逸話がWikipediaに載っていました。以下にご紹介申し上げます。

  • 芳洲は様々な外国語に堪能であったことから、とある中国人に「君は多彩な語学に精通しているようだが、なかんずく日本語が最も流暢だ」と冗談交じりに言われたことがある。
  • 思想的には大陸思想(小中華思想)を信仰し、自身が日本人である事を悔やみ「中華の人間として生まれたかった」と漏らした記録が後世に伝わる。
  • 当時日本で流行していた男色を、芳洲も嗜んだようだ。申維翰は、日本の男色趣味を「奇怪極まる」と眉をしかめ芳洲に苦言を呈したおり、「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」と逆に諭されたという。

(Wikipedia「雨森芳洲」から引用)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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