1614年(慶長19)のこの日、豊臣秀頼は方広寺再建事業で、鐘の鋳造を終えてその銘を刻みました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
方広寺は、1589年(天正17)に豊臣秀吉が京都に創建した寺です。
その大仏殿は奈良の東大寺大仏殿を上回る規模で、この時に造られた大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったといわれています。ちなみに、東大寺の大仏は高さ14.98m、鎌倉の大仏は11.39mで、方広寺の大仏の大きさが際立ちます。また、この大仏は工期短縮のため、当初計画されていた銅造ではなく木造で造られたそうです。
しかし、木造だったからでしょうか?せっかく完成した大仏は、翌1595年(文禄5)に発生した慶長伏見地震により倒壊してしまいました。このとき大仏殿は倒壊を免れていますが、後年消失しています。
この大仏が倒壊した時の秀吉の様子についてWikipediaに面白いことが書いてありました。
このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる。
一説に、秀吉は崩れた大仏の眉間に矢を放ったともいう。
(Wikipedia「方広寺」から引用)
秀吉の子の秀頼はその再建に取り組みました。
そして1614年(慶長19)4月16日、鐘も鋳造を終えてその銘を刻みました。この鐘は、高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンもある巨大なものです。
ところが徳川家康は、鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」の文について次のように難癖を付けました。
- 国家安康は、家康の名前を侵しており、無礼で不法極まりない。その上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。
- 君臣豊楽・子孫殷昌は「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がミエミエである。
そして、その責任を取らせる為に、①豊臣氏の国替えか、②淀君の江戸人質か、の二択を迫りました。
これが、大阪の陣の原因と言われる方広寺鐘銘事件です。
皆様御存知の通り、この事件は大坂方を開戦に踏み切らせ、そして1614年(慶長19)10月に大阪冬の陣、翌1615年(元和元)4月に大坂夏の陣が起き、5月に大阪城陥落、淀君&秀頼母子が自ら命を断つという結果で戦いが終ったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<メートル条約に加入(1886年=明治19)>
今日はここまでです。
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