4月26日 <田麦への年貢徴収を禁ずる(1264年=文永元)>

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1264年(文永元)のこの日、鎌倉幕府は備前・備後両国の御家人に対して田麦の年貢徴収を禁じました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今日の話題は、二毛作の歴史と大いに関わりがあるものです。

 

1264年(文永元)4月26日に、鎌倉幕府は備前・備後両国の御家人に対して田麦の年貢徴収を禁じていますが、この田麦とは、秋に稲を刈り取ったのち、冬に蒔く麦の事を指します。

 

すなわち、この禁令は、備前・備後といった西日本で、米麦の二毛作がすでに広まっていたことを示すものだと言えましょう。この時期は、冬に蒔いた麦の収穫期にあたり、それに対応したものだったのです。

 

二毛作は、同一の耕地に年1回、1作物を作付するのを一毛作といい、年2回、別々の作物を作付けることを二毛作または両毛作といいます。その場合、主作物を表作、あとの作付を裏作といい、年3作以上作付するのを多毛作といいます。二毛作は一毛作と比較して土地の利用率が高いため、耕地の少ない場合は有利で、農業技術の発展に伴って一毛作の二毛作化が進み、場所によってはさらに1年3作以上の多毛作に進みました。

 

二毛作の起源は明らかではありませんが、平安時代の中期から二毛作の存在を語る史料があり、鎌倉時代中期には水田裏作の麦(表作は稲)に課税することを禁止する法令(関東御教書)が出ています(『新編追加』)。このような水田二毛作が成立する不可欠の前提は、中世成立期の畠作の発展であり、さらには畠二毛作の成立・発展でした。水田二毛作は稲の裏作に大麦などを栽培するので、二毛作の成立に先行して冬作畠の長い経験と畠二毛作の技術があったのは当然といえるでしょう。

 

このように鎌倉時代中期の1264年(文永元)に出ているこの関東御教書は備前・備後のみならず九州の肥前にも伝達されてお り、13世紀中頃には畿内以西のかなりの広い範囲に水田二毛作が普及していた様です。室町時代初期になると、瀬戸内海沿岸の尼崎付近では秋に麦を時き、翌年の初夏にそれを収穫し、そのあとに稲を作って、初秋に稲刈りを行い、そのあとに本麦(そば)を作る三毛作さえ行われていたとされます(宋希環『老松堂日本行録』)。

 

しかし中世後期に水田二毛作がどの程度普及したかは不明で、西日本の先進地域で20〜30%、東国ではそれを下回ったであろうと考えられています。この数値は『清良記』によるものですが、近世初期には広く各地で二毛作が奨励されました。江戸時代には本百姓の小規模経営が一般的に成立し、耕地利用の集約化が進むと、品種改良・購入肥料・灌漑用水施設などの諸条件に恵まれた近畿や山陽方面を中心として水田二毛作の範囲が一層拡大され、畑地における二毛作も普及し、ここに二毛作は主穀以外に各種の商品作物へも及びましたた。

 

明治以後は購入肥料の種類と量の増加、土地改良の実施などにより、二毛作の普及が一段と進み、1886年(明治19)には当時270万町歩の田地の中で二毛作以上の作付は66万町歩て、25%弱でした(エッゲルト『日本振農策』)。

 

第2次世界大戦後は、水田における一毛作・二毛作の比率がほとんど相半ばするに至りましたが、その後、日本経済の高度成長の結果、二毛作は激減し、1978年(昭和53)における耕地利用率は102.9%、冬期耕地利用率は101%と なっている。耕地利用率とは耕地面積に対する作付延べ面積の割合で、以下の算出式で求められます。

耕地利用率(%)=作付延べ面積÷耕地面積×100

102.9%とか101%なので、積極的に二毛作以上を行う例は少なくなってしまったということです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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