1183年(寿永2)のこの日、木曽義仲こと源義仲は、越中と加賀との境の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で平氏の大軍に夜襲を掛け、壊滅させました。
これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
源頼朝が以仁王の平氏追討の令旨を受け取り、挙兵した話を4月27日の拙blogで記事にしましたが、今日は、頼朝の従弟(いとこ)の源義仲(みなもとのよしなか)の話です。4月27日の記事へのリンクを貼り付けておきますね。
→4月27日 <頼朝、以仁王の令旨を受ける(1180年=治承4)>
頼朝の従弟源義仲は、頼朝より1ヶ月ほど遅れて1180年(治承4)9月に信濃国で挙兵しました。
義仲は、徐々に近隣の武士を従え、1181年(養和元)6月、平氏の命を受けた越後の豪族城氏(じょうし)の攻撃を退けて北陸道に進出しました。北陸道諸国には反平氏の気運で盛り上げっており、義仲の勢力は急激に拡大していきました。
1183年(寿永2)、雪解けを待っていた平氏は平維盛(たいらのこれもり)を大将として総力を結集した大軍を派遣しました。
平氏の大軍の前に、越前・加賀の武士たちは敗北を喫します。勝ち進んで調子づいた平氏の義仲追討軍は、いよいよ越中にまで進んできます。一方の義仲は、信濃・上野・越後などの武士を率いて全力でこの平氏を迎え撃ったのです。
1183年(寿永2)5月11日、越中と加賀との境、礪波(となみ)山の倶利伽羅峠の夜戦において、軍記物語では10万余騎、当時の貴族の日記では4万余騎という平氏の大軍を、義仲の軍勢は壊滅させたのでした。
その勢いにのって、義仲軍は敗走する平氏軍を追って加賀国篠原でも勝利し、そのまま京都に攻め上がったのです。畿内の武士や寺社勢力も一斉に平氏に反旗を翻(ひるがえ)し、同年7月、平氏一門はついに京都から追い落とされたのでした。そして、平氏は再び京都に戻ることはありませんでした。
この倶利伽羅峠の戦いは、牛の角に松明を結んで夜襲を掛けたと「源平盛衰記」で伝えられる一戦ですが、その牛云々の話は、どうやら創作のようです。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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