5月15日 <後鳥羽上皇、北条義時追討の宣旨を下す。承久の乱。(1221年=承久3)>

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1221年(承久3)のこの日、後鳥羽上皇は北条義時追討と諸国の守護人・地頭に上皇のもとへ馳せ参じることを命じた宣旨を下し、ここに承久の乱が始まりました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

武士の勢力が全国各地に伸びていくにつれ、朝廷の貴族たちは反感を強めていきました。特に、公家の経済的な基盤であった荘園が地頭のために侵されていったことは、そうした貴族の危機感を増大させ、幕府打倒の火種となっていきました。

 

1183年(寿永2)に平氏が安徳天皇とともに都落ちしたため、神器がないまま後鳥羽天皇が践祚(せんそ)しました。その時、後鳥羽天皇は満年齢でわずか3歳。当初は祖父の後白河法皇が院政を行っていましたが、1192年(建久3)法皇の没後は九条兼家、1196年(建久7)に兼家が失脚すると源通親が実権を握りました。

1198年(建久9)に土御門天皇に譲位して院政を始めた後鳥羽上皇は、1202年(建仁2)に源通親が没すると強力な指導力を発揮するようになりました。上皇は過去に上皇たちがそうしたように専制を指向し、権力を一身に集中し独裁化していきました。

多数の院領荘園によって経済的な基盤を固め、その土地を恩賞として新たな朝廷の軍事力を構築していきました。畿内・近国の武士や幕府の有力御家人までもが上皇に臣従し、北面の武士や新たに設けた西面のぶ氏に任じられました。その一方で、上皇は和歌所を設置するなど文武両道の新興をはかりました。

また、鎌倉幕府に対しては、第3代将軍源実朝を厚く遇し、破格の官位を与え、自らの外戚坊門信清の女を実朝の妻とするなど公武の融和を図りました。しかしながら、1219年(承久元)正月に、その実朝は源頼家の遺児の公暁によって暗殺されてしまうのです。

 

その後、皇子を将軍として迎えたいとする幕府の要望に対し、上皇はこれを許さず保留する一方、逆に摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改補を要求しましたが、これに対し幕府は拒絶。交渉は決裂してしまいました。

 

幕府との対立の姿勢を深めた上皇は1221年(承久3)、流鏑馬(やぶさめ)と称して14カ国の軍兵を招集しました。京都に居た武士も上皇方に参加しましたが、京都守護伊賀光季(いがみつすえ)は参加を拒否しました。

すると、同年のこの日、上皇は北条義時追討と諸国の守護人地頭に上皇のもとへ馳せ参ずることを命じた宣旨・院宣を発し、次いで、京都守護伊賀光季の館を攻めて討死させました。

ここに承久の乱が始まったのです。

この乱の行方はどうなったか…は別の機会にいたしましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっていたので、この項目は無しです。

今日はここまでです。

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