6月 出来事

6月10日 <廻船問屋の会津屋八右衛門、密貿易で厳罰に処せられる(1836年=天保7)>

2018/06/14

1836年(天保7)のこの日、石見国浜田藩の廻船問屋の会津屋八右衛門は禁制の密貿易を犯した罪により斬罪に処せられました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは4分程度で読める記事です。
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1.解説

 

日本海の隠岐島の沖合いに鬱陵島(うつりょうとう)という小島があります。別名竹島と呼ばれています。

竹島といっても、現在でも日韓両国間でその帰属が争われている竹島とは別の島です。ちなみに、こちらの竹島は韓国側は独島と呼んでいるそうです。

話を戻して、この鬱陵島(竹島)は、元禄年間には朝鮮領と確定していましたが、日本人の出漁や渡海がしばしば行われていたそうです。

 

石見国浜田藩の廻船問屋、会津屋八右衛門は父の清助の東南アジアでの漂流談を聞いて海外渡航を企て、浜田藩家老岡田頼母らとともに1830年(天保元年)頃から鬱陵島を拠点に李氏朝鮮、清国、スマトラ、ジャワ島などとの密貿易を行ったのです。

 

ところが、幕府隠密の間宮林蔵にかぎつけられて幕府の知るところとなり、1836年(天保7)に逮捕され、同年のこの日斬罪に処せられました。浜田藩もこの密貿易を黙認していたため、国家老岡田頼母、在国年寄松井図書は切腹、家老岡田頼母の家臣勘定方橋本三兵衛も八右衛門とともに死罪と相成りました。

また、藩主で老中でもあった松平康任は永蟄居を命じられ、そののち松平家は奥州陸奥国棚倉藩に転封されたのでした。

この会津屋八右衛門の密貿易の出来事は竹島事件と呼ばれています。

 

会津屋八右衛門が禁制の密貿易を犯したのには、父の漂流話だけでない理由があったそうです。島根県の観光情報サイト「しまね観光ナビ」にその情報が書かれているので、以下にまるっとご紹介申し上げます。

松原湾を見おろす鰯山岩頭に、海の快男児会津屋八右衛門の碑がある。八右衛門の父今津屋清助は、藩の廻船御用をつとめていたが、文政2年(1819)積み荷を乗せた船が難破、全てを失い、家名は断絶した。しかし、八右衛門は、家の復興と自らの夢を捨てなかった。

家名を会津屋に改め、当時空島で資材が豊富だった竹島(現在の欝陵島:うつりょうとう)に目を付け、江戸の藩役人に渡海許可を申し出た。当時、浜田藩は松平周防守家が治めていたが、藩財政は窮乏を極めていたため、勘定方橋本三兵衛、国家老岡田頼母(たのも)らが、八右衛門と密議をこらし、抜け荷(密貿易)による収入で財政建直しを計画した。

天保元年(1830)ごろから、竹島を足がかりに、東南アジア諸地域への密航が始まり、貿易によって巨利を得、次第に藩財政もうるおっていった。しかし、幕府の密偵間宮林蔵(まみやりんぞう)により浜田藩の抜け荷が発覚。国禁を犯した重罪人として、天保7年(1836)に八右衛門と橋本三兵衛は江戸に送られ死刑となった。家老岡田頼母は、事件発覚と共に責任を負って自刃して果てた。しかし八右衛門は海の男として浜田の人々にその快挙がたたえられ、昭和10年(1935)に碑が建てられた。

(しまね観光ナビ「会津屋八右衛門の頌徳碑」からコピペ)

現地では会津屋八右衛門は義人なんですねぇ。

この会津屋八右衛門の頌徳碑の写真も島根県浜田市のサイトから借りてきました。

(島根県浜田市のサイト「会津屋八右衛門の碑」から拝借)

また、この会津屋八右衛門のことを題材にあいた古川薫の歴史小説があるので以下にご紹介申し上げますね。ご興味の在る方はどうぞ御覧ください。

石見国浜田藩は6万石の小藩ながら、老中職に就く藩主松平康任がワイロをばらまき、藩の財政は困窮していた。その穴埋めのため、藩は海商会津屋八右衛門に密貿易を命じた。八右衛門は国禁を犯して、ルソン、ジャガタラへ渡って交易をする。浜田藩の興亡を賭けた男の凄絶な生涯を描く長篇歴史小説。

(Amazonの「BOOK」データベースより引用)


閉じられた海図 (文春文庫)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

<ハガチー事件発生!(1960年=昭和35)>

今日はここまでです。

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