6月24日 <くじ引き将軍足利義教、赤松満祐に討たれる。嘉吉の乱(1441年=嘉吉元)>

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1441年(嘉吉元)のこの日、室町幕府第6代将軍足利義教は、赤松満祐によって討たれました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

室町幕府第5代将軍足利義量(あしかがよしかず)が早世したのち、将軍代行という形で執務を行っていた第4代将軍であった足利義持(あしかがよしもち)が後継者を定めぬまま世を去ったため、くじ引きによって第6代将軍が足利義教(あしかがよしのり)に選ばれました。

この出来事については拙blog1月19日の記事に書いていますが、今日はそのくじ引き将軍足利義教に関することです。

 

1月19日の記事へのリンクを貼り付けておきますね。ご覧頂ければ幸いです。

1月19日  <くじ引きで将軍を決めました(1428=正長元)>

 

足利義教は幕府における将軍権力の強化をねらって、将軍に服従しないものは全て力で屈服させようとした、いわゆる恐怖政治を行ったため、幕府からの自立意識の強かった鎌倉府よの関係が悪化してしまったのです。

 

1438年(永享10)、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)と関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)とが対立したのを機に、将軍義教は憲実支援の名目で関東へ討伐軍を送り、翌年、持氏を滅ぼしてしまいました。これが永享の乱と呼ばれる出来事です。

 

さらに、義教は専制政治を強行し、1440年(永享12)には有力守護である一色義貫(いっしきよしつら)・土岐持頼(ときもちより)を相次いで謀殺したため政治不安が高まりました。

 

一方、永享の乱以降のの関東では1440年(永享12)に下総の結城氏朝(ゆうきうじとも)が持氏の遺子を迎えて下総の結城城に立てこもりましたが、翌年幕府の支援を得た上杉軍の攻撃を受けて落城するという結城合戦が発生しています。

 

そして起こったのが、本日のお題である嘉吉の乱です。

 

1441年(嘉吉元)6月24日、京都の赤松満祐(あかまつみつすけ)邸では、将軍義教をむかえて、当時流行していた猿楽鑑賞の宴が盛大に開かれていました。

 

ここのところ何年もの間、足利持氏との対決に神経をピリピリさせていた義教も、この日は結城合戦が勝利に終わったあと、ということもありご機嫌でした。お付きの大名らも赤松氏の振る舞う酒に盃を重ね和やかに宴会は進んでいったのでした。

 

宴たけなわ、いよいよ猿楽能が開始されようとしたとき、厩につないであった馬が一斉に庭中に放たれ騒々しくなった刹那、宴席後方の障子が手荒く引き開けられ、大刀をふりかぶった武士数人が将軍を襲いました。義教はひとたまりもなく命を落としてしましました。そしてお付の大名らも次々と…。

 

結城合戦勝利の祝宴は、一瞬のうちに血の海と化したのでした。

 

この凶行の犯人は、ほかならぬ祝宴の主人、赤松満祐だったのです。

 

その後、満祐は家臣に命じ、邸宅に火を付けさせ、一族を率いて自らの領国である播磨に下っていきました。討ち取った将軍義教の首級は、摂津中嶋の宗福寺に捨てたそうです。

 

この出来事が、嘉吉の乱の発端でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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