8月24日 <徳川家康、上杉景勝を米沢に転封(1601年=慶長6)>

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1601年(慶長6)のこの日、徳川家康は上杉景勝を会津120万石から、米沢30万石に転封しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

上杉景勝は、上杉謙信の甥ではじめは長尾姓でした。1575年(天正3)に上杉姓と景勝の名乗(なのり)を与えられ上杉景勝となったのでした。

1578年(天正6)、謙信の没後、上杉景虎と家督を争い、翌1579年(天正7)御館(おだて)の乱で景虎を破り、景勝は謙信の後継者として越後を領有しました。

この御館の乱については、拙Blogの別記事をご笑覧下さい。

3月17日 <上杉景勝、上杉景虎を滅ぼす。御館の乱(1579年=天正7)>

 

景勝は、1584年(天正12)豊臣秀吉に従い、以降豊臣政権に協力し、のちの五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)の一員として用いられました。

1598年(慶長3)秀吉により陸奥国会津120万石に加増移封され、「会津中納言」と呼ばれるようになりました。

秀吉の死後、1600年(慶長5)、上杉家の家老直江兼続と懇意であった石田三成と通じて徳川家康と対立しましたが、同年の関ヶ原の戦いで三成が敗れたため降伏し、その翌1601年(慶長6)のこの日、知行高を120→30万石へ大幅に減封され出羽国米沢に転封となったのでした。

 

その米沢への転封の際、景勝は知行高を大幅に減らされたにも関わらず、自ら牢人となった者はともかくとして従来の家臣団6,000人を解雇することをしなかったので、他藩に比べ藩財政に占める家臣の労務費の比率が高く、上杉氏の財政は非常に深刻な状態に陥ることになるのでした。

その苦境を救い、藩財政を立て直す努力をしたのが、あの第9代藩主上杉治憲(上杉鷹山)です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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