1911年(明治44)のこの日、平塚らいてうらが中心となって作られた青踏社が、雑誌「青鞜」を刊行しました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
広告
1.解説
第一次世界大戦を契機に世界的な民主主義の風潮が高まり、日本国内でも第一次世界大戦が終わる頃から様々な社会運動が起こりました。
そうした新しい時代の風潮は、女性の間にも変化をもたらしました。その変化は、自分たちを男性に対して従属的な地位に縛り付けている社会的通念から解放し、その地位を向上させようとする思想・運動を生み出したのです。
1911年(明治44)には平塚らいてうらの呼びかけに、与謝野晶子・野上弥生子・長沼智恵子(のちの高村智恵子)ら女流文学者が参加し青踏社が作られました。
そして同年のこの日、女性の覚醒を促そうとする雑誌「青鞜」が創刊されました。Wikipediaに創刊号の表紙の画像があったので無断借用してきました。画像またはその下の青文字をクリックするとWikipediaの大きな画像が見られます。
<「青鞜」創刊号表紙(画・長沼智恵子)>
(Wikipedia「青鞜」から無断借用)
この創刊号に載せられた有名な巻頭言でらいてうは
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。
と書き始め、
私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ
と高らかに宣言し、自分たちが目標とするものを示したのでした。
また、この創刊号には与謝野晶子の
山の動く日来る
ではじまる「そぞろごと」という詩が載っていた事でも知られています。この「そぞろごと」はWikisourceで読めますよ。
→「そぞろごと」(Wikisource)
青踏社の女性たちは「新しい女たち」と呼ばれて大反響を呼び、始めは1,000部であった「青鞜」の発行部数は3,000部にまで増加しました。そして1916年(大正5)2月号の廃刊まで4年半、52冊が発行されました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
コメント