1月18日 <明暦の大火で江戸中が火の海に <1657年=明暦3)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1657年(明暦3)の今日、明暦の江戸大火と呼ばれる大規模な火災が発生しました。

 

一般的には明暦の大火として一つの火事の様に名称が付けられていますが、性格には1657年(明曆3)1月18日から19日にかけて、江戸で相次いで発生した3つの大火を総称して「明暦の江戸大火」と呼んでいます。

 

第1の火災は18日午後2時頃、本郷丸山の本妙寺から出火し、折からの強風に煽られて本郷・湯島・駿河台に延焼し、更に下町の神田から日本橋に火事が及びました。夕刻からは、風が西風に変わると鎌倉河岸辺から東に火線が移り、茅場町・八丁堀・霊岸島から佃島までの下町一帯を焼き尽くしました。このとき霊厳寺が焼けて多くの死者を出し、また囚人が脱獄したという情報で浅草橋の見付の門が閉じられたままてあったため逃げ路を失った多数の死者を生じたことは有名です。この火災は翌19日午前2時ごろ一応鎮火しました。

本妙寺出火の原因は不明ですが、 当時は由比正雪の残党による放火の噂もあったそうです。

また後年には、大施餓鬼の火に投じた振袖が燃え上がり、それから大火になったとの伝説が生まれ、この火事に「振袖火事」という俗称が生まれました。

 

第2の火災は19日午前11時過ぎ、小石川伝通院近くの新鷹匠町の武家屋敷から出火し、これも強風に乗って神田から京橋・新橋辺りまで延焼し、その途中で江戸城中に飛火し、天守閣はじめ本丸・二ノ丸・三ノ丸殿舎を焼き、その際に所々の鉄砲や大砲の玉薬に引火して凄まじい轟音とともに多聞・富士見櫓が崩れ落ちたそうです。そして焼け残ったのは、わずかに西ノ丸殿舎のみでした。

 

第3の火災は同じ19日の夕刻に麹町5丁目の町家からおき、東に延焼して江戸城際に達すると、堀端を南下して外桜田・西ノ丸下大名小路の大名屋敷を総なめにし、日比谷・愛宕下・芝方面にまで及び、大火が収まったのは20日の朝でした。江戸の町はその前年の11月頃から80日も雨が降っていませんでした。現代なら異常乾燥注意報が出ているに違いありません。そんなカラカラに乾いた条件が重なり、1月18~20日にかけての3度の火事は江戸の町を焼き尽くしたのでした。

 

「火事と喧嘩は江戸の花」と言われる位、江戸時代は大火災が繰り返し発生しました。江戸時代260年余りの間に49回も大火があったそうです。中でも

  • 明暦(1657年)の大火
  • 明和(1772年)の大火
  • 文化(1806年)の大火

を総称して江戸三大大火と呼びます。

 

この明暦の大火は、規模的には最大で、被害については史料により相違がありますが、大名屋敷160、旗本屋敷770、寺院300、町屋約400町、地域的には現在の千代田・中央両区に当たる当時の江戸市街の大半が延焼しました。死者は一説に107,000人に及んだとされますが、これは過大としても数万には達しているとみられています。本所にある回向院は、この大火で放置された死者を大穴を掘って埋葬し、供養の為に建てた寺です。

 

大火後、幕府は、 羅災した町人に対して粥の炊き出しや米の廉売を行い、また大名・旗本・町人に対し分相応の金銀を下賜あるいは貸与して復旧の資に充てさせるなど、応急の救済措置を取りました。それとともに江戸市街の復興にあたり、防火対策という概念を盛り込んだ 都市計画を立案し、それを実行しました。主な実施内容は

  1. 基礎作業として、大目付北条正房(氏長)らに命じて実測による正確な江戸地図を作製させました。この図は後年、に遠近道印 (おちこちどういん)作として板行された「寛文江戸図」の原型となりました。
  2. 江戸城内吹上にあった御三家邸をはじめとする武家屋敷を城外に出すなど、江戸城周辺の武家屋敷の大規模移動を行いました。
  3. 外郭内の寺院を外濠外あるいは新開地に移動させました。
  4. 市内に広小路・火除明地・火除堤などを各所に設けて火災の延焼防止を図りました。

大火後、 江戸市街は比較的短期間で復興しましたが、その都市的景観は大火前とは大きく変わりました。また大火で焼失した江戸城天守閣は、再建の議はありましたが結局再建されませんでした。

 

明暦大火は、江戸の都市発展史の上でエポックメイキングとなった大事件でした。

 

 

上記しましたが、この明暦の大火には「振袖火事」という別名が付いています。この伝説に触れないワケには行きません!

 

麻布の質屋の娘梅乃は、上野寛永寺の寺小姓に一目惚れし、その小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作って貰いました。その梅乃は恋煩いがもとで1655(承応4)年 1月18日に17歳で亡くなったのです。両親は娘の棺をその振袖で覆って本郷丸山本妙寺で葬式を行いました。本妙寺は葬儀後この振袖を古着屋へ売りとばしました。 その振袖を、次に着たのは上野の紙商の娘きのです。ところが、このきのも17歳で、1656(明暦2)年 1月18日に亡くなったのです。そしてきのの棺に掛けられて再び本妙寺に。葬儀後、またまた古着屋へ売却です。 そして、その振袖を、次に着たのは本郷の粕屋の娘いく。なんという事でしょう!このいくも同じ様に17歳で1657(明暦3)年 1月18日に亡くなったのです。そして棺に掛けられて三たび本妙寺に。 三度目ともなるともう、寺の側でもビックリです。亡くなった三人の娘の親と相談し、本妙寺で供養して貰う事になりました。 振袖供養です。 住職が読経しながら火中に振袖を投じたその時、一陣のつむじ風が吹き、火の点いた振袖を宙高く舞い上げたのです。 その有様は、あたかも  「人の立ち上がって手を広げた姿」 そのままに見えたそうです。その振袖は本堂の屋根に落ち、瞬く間に屋根に火が燃え移りました。

 

これが「振袖火事」の言い伝えです。 げに恐ろしきは女性の怨念であります。

 

江戸の町はその前の11月ごろから80日も雨が降っていませんでした。現代なら異常乾燥注意報が出ているに違いありません。そんなカラカラに乾いた条件が重なり、火は1月18~20日にかけて江戸の町を焼き尽くしたのでした。

 

今日はここまでです。

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