1月19日  <くじ引きで将軍を決めました(1428=正長元)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1428年(正長元)の今日、室町幕府第6代将軍がくじ引きによって決められました。

 

室町幕府の第5代将軍は足利義量(あしかがよしかず)でした。義量は父である4代将軍足利義持(あしかがよしもち)が1423年3月に退位、そして出家する時に将軍職につきました。形の上では将軍となっていた義量でしたが、実権は義持が握っていました。義量は政務に口出しする余地もなく、酒宴を好んで健康を害し、在位わずか2年19歳の若さで世を去ってしまいました。

 

義量が亡くなると、義持に実子はなく、義量の遺子もなかったので、後継将軍のことは深刻な政治問題となってしまいました。

 

取り敢えずは、将軍代行をいう形で執務していた4代将軍足利義持も、1428(応永35)年 1月に重病に掛かってしまいました。義持はもともと頑健だったのですが、足の腫物から悪質の菌が入ったのが命取りになった、と考えられています。

 

義持が助からないとわかると、幕府の首脳部は誰を後継将軍とすべきか?について評議しました。しかし結論が出ないので、僧侶ながら義持の信任が厚い三宝院満済(さんぽういんまんさい)が病床に伺候し、義持自身の意向をただすことになりました。

 

死の床の義持は

「自分に実子があっても後継ぎを誰と指名しようとは思わない。まして実子がないのだから、結局皆々の推すところに従うほかない。それに、自分がつぎの将軍を指名したとしても、守護たちがそれに従う気持ちがなければ、およそ無意味ではないか…」

という意向でした。

 

将軍と有力守護の力関係は、事実このころ、義持が嘆息したように、逆転しつつあったし、もともと義持自身も斯波義将(しばよしまさ)に推されて将軍になっていたので、死に臨んでも、跡取りの決定を大名たちに委ねるほかなかったのです。

 

そこで、後継者の決定は、義持の兄弟4人を候補者として、それをくじによって選んではどうか?と満済が提案し、義持も

「なるほど妙案」

とうなずき、苦しい息の下から

「されば予の死後、くじを開くが良い」

と満済に命じました。

 

くじは義持の臨終の枕辺で満済がつくり、山名時煕(やまなときひろ)がそれを封じ、管領畠山満家(はたけやまみついえ)が引きました。開封は義持死後という定めにしたがって、翌日の1月19日、源氏の氏神でもある六条八幡(ろくじょうはちまん)の神前で行われました。

 

くじには、義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の四名の名が書いてありましたが、引かれたくじには、その当時、天台座主の青蓮院義円(しょうれんいんぎえん)の名が書いてありました。義円は還俗して足利義宣(あしかがよしのぶ)となりました。ところが、義宣の名前のよみが「世忍ぶ」に通ずるのを嫌がって再度改名し、室町幕府第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)となりました。

 

この様な奇妙な将軍決定のプロセスを取ったのも、背後に守護大名間の複雑な動きや対立があり、うっかり特定の人を推せばたちまち混乱が起こる可能性があったからにほかありません。満済や畠山満家らがくじ引き方式をとったのは、その混乱を避けるための苦肉の策であったと言えましょう。

 

実はこの義教は、非常にヒステリックなお方だったようで、Wikipediaには物凄い逸話が書いてありました。

  • 逸話1:酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた。
  • 逸話2:説教しようとした日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。

その他にも、微笑んだ相手に、「ワレ、コケにしとんのか・・・」みたいな感じで相手を所領没収、蟄居を命じた、といった話もあり、家臣はさぞかし大変だっただろうな、と思います。

 

今日はここまでです。

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