1月31日 <平賀「粛学」(1939年=昭和14)>

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79年前のこの日、平賀譲東大総長が、自由主義派の河合栄治郎教授と国家主義派の土方成美教授とに辞職勧告を出していた問題で決定がなされ、河合教授が休職処分になりました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この平賀「粛学」は、東京帝国大学経済学部の内部抗争解決のため、平賀譲東大総長が両派の中心人物の河合栄治郎(かわいえいじろう)と土方成美(ひじかたせいび)との両教授を休職処分にした事件です。

 

1938年(昭和13)12月、総長に就任した平賀は、著書の発禁処分で文部省から処分を迫られていた河合教授の問題と、積年の経済学部教授会の派閥抗争を解決するため、河合教授の著書についての、審査委員会と学部長会議の審議をうけ、翌1939年(昭和14)1月経済学部教授会にはかることなく、自己の責任において河合教授と土方教授との休職を文部大臣に具申しました。その理由は、河合教授については「学説表現の欠格」、土方教授については「綱紀の紊乱」がその理由でした。

 

これを受けた文官高等分限委員会(内閣総理大臣を会長とし、大審院長、会計検査院長、行政裁判所長官、枢密院顧問官、会計検査院院長、官分限令ノ適用ヲ受クル勅任文官3人の計8人で構成される)により、1939年(昭和14)のこの日河合教授に、そして翌2月13日に土方教授に休職処分が発令されました。

 

この両教授の休職が発令されると、学部の自治慣行無視と思想処分的な決定に抗議した教授・助教授・助手ら多数が辞表を提出し、東大経済学部は一時壊滅状態になってしまいました。

その後、一部教官の辞表撤回や補充人事などにより、経済学部は翌1940年(昭和15)に正常に戻りました。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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