1月7日 <昭和天皇、崩御(1989年=昭和64)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1989年(昭和64)の今日、1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御されました。御年87歳。死因は十二指腸部の腺癌(せんがん)と発表されました。

 

この日に、昭和という時代は終わり、そして、新しい年号「平成」の御代になったのでした。

 

その昭和天皇はどんなお方だったのでしょうか。

 

昭和天皇は、大正天皇の第一皇子で、母は貞明(ていめい)皇后です。名は裕仁(ひろひと)、幼称は迪宮(みちのみや)でした。非常に几帳面で慎重なお人柄で、健康に悪いからとの理由で酒・煙草は頂かれなかったそうです。祖父明治天皇が酒豪で女性関係にも華やかであられ、また、父大正天皇はブランデー党であられた事にくらべて、昭和天皇の私生活は質素そのものであったそうです。その甲斐もあってか、亡くなられた87歳という年齢は、125名居られる歴代天皇のなかでも最高齢でした。それまでの最高齢天皇は、江戸初期の後水尾天皇(ごみずのお)が85歳という記録が残っています。

 

また「科学者天皇」の一面も国民によく知られており、植物の観察、葉山と須崎での海中生物の研究を楽しみにされ『相模湾産後鰓類図譜(さがみわんさんこうさいるいずふ)』の著書を残されています。その他にも、海洋生物や植物の研究の成果として20冊にものぼる著書が残されています。

 

1912年(大正元)に皇太子になられ、1921年(大正10)に大正天皇の病状悪化により摂政に就任されています。1924年(大正13)には久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)王の第一王女・良子 と結婚され、1926年(昭和元)12月に大正天皇の崩御により皇位を継承されました。

 

平成の御代も既に29年目で、昭和は遠くなりました。振り返ってみれば、昭和時代は64年にもわたる長い時代でした。1928年(昭和3)張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件で田中義一(たなかぎいち)首相を叱責された事が内閣総辞職をもたらし、2.26事件では反乱軍に激怒し鎮圧をお命じになりました。また、戦争の拡大を憂慮し、対米戦争にも消極的であられましたが、これを防ぐことができず開戦に至りました。その戦争も、1945年(昭和20)8月の御前会議で戦争継続の主張を退けて終戦を決断されました。敗戦の翌1946年(昭和21)1月1日御自らの神格化を否定して人間宣言を行い、1947年(昭和22)年に日本国憲法で国民統合の象徴とされたのでした。

こうした日中戦争、米英との戦争、敗戦などの苦難もあり、また戦後の飛躍的な復興など臣民が昭和天皇とともに体験した歴史はまさに激動の時代という呼び方に相応しいものでした。

 

昭和の歴史はそのまま「裕仁」天皇とともにあり、重なるのです。

 

臣民とともに歩まれた昭和天皇の病状を気づかう祈りの声は高かったのですが、それも奇跡を起こすことはありませんでした。昭和天皇のご逝去を悼み、記帳に集まった人は、1月 7~8日の二日間で何と72万人でした。

大喪の礼ほか葬儀は2月24日に行なわれ、その他28もの皇室儀式も終わり1年後、昭和天皇の御霊は武蔵野陵(東京都八王子市)に安置されました。

 

今上天皇は儀式のなかで、

「世界がさらに太平であるように、お見守りください」

との御告文(おつげぶみ)を読みあげましたが、愚かな宰相がそのお気持ちを踏み躙ろうとしているのは、この拙文をお読み頂く皆様はよくご存知のことと思います。

 

今日はここまでです。

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