10月12日 <生野の変、勃発。(1863年=文久3)>

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1863年(文久3)、この日、福岡藩を脱藩した平野国臣(ひらのくにおみ)と公家の沢宣嘉(さわのぶよし)らが但馬生野の幕府代官所を襲撃した生野の変が起きました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

生野の変は、1863年(文久3)のこの日、尊皇攘夷派が、但馬国生野で挙兵した事件です。

 

 

尊皇攘夷論は、尊王論と攘夷論とを結びつけた後期の水戸学の思想で、藤田東湖(ふじたとうこ)・会沢安(あいざわやすし)らが中心でした。尊王論それ自体は将軍の支配の正統性を権威づけるものでしたが、対外的な危機が迫ると撰夷論と結びつき、欧米列強の圧力に屈服して開国した幕府の姿勢を非難し、実践的な政治革新思想となっていきました。

 

この尊皇攘夷派の中心にあったのは長州藩でしたが、それに対して朝廷(公)と幕府(武)とが協調して政局を安定させようとする公武合体派を支持する薩摩・会津といった雄藩もありました。一旦は、政局の主導権を握り、尊攘派が優位に立ちましたが、薩摩・会津の両藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し、ひそかに反撃の準備を進めてたのです。

 

1863年(文久3)8 月18日、薩摩・会津両藩兵が御所を固めるなか、長州藩の勢力と急進派の公家三条実美(さんじょうさねとみ)らを京都から追放し、朝廷内の主導権を奪い返したのです。これがいわゆる8月18日の政変と呼ばれる事件です。

その前後、京都の動きに呼応して、公家の中山忠光(なかやまただみつ)土佐藩士の吉村虎太郎(よしむらとらたろう)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組の変などが起こりました。

 

生野の変もそうした一連の事件の一つで、8月18日の政変による失地回復を狙い、前述の大和の天誅組の変の挙兵に呼応しようとした、福岡藩の平野国臣、鹿児島藩の美玉三平(みたまさんぺい)ら浪士が主導し、中島太郎兵衛、北垣晋太郎ら但馬の豪農が推進してきた農兵計画と結び、七卿落ちの1人で長州藩にいた沢宣嘉を総帥に迎えて、1863年(文久3)10月12日未明に生野代官所を占拠したのでした。

 

挙兵の檄に応じた近隣の農兵は2,000人に及びました。

 

しかし、江戸幕府の命令で出石(いずし)・姫路などの諸藩が出兵すると挙兵側の結束は乱れ、翌13日夜には沢は脱出し、農兵も離反してしまいました。

 

残った強硬派の多くは農民に襲われ、14日には尊攘派志士壊滅し、その後、但馬地方では一般農民層の豪農層に対する打ち壊しが続いたそうです。

 

この他にも、藤田小四郎ら水戸藩尊攘派が筑波山で挙兵した天狗党の乱など、尊攘派の挙兵が相ついでおこりましたが、いずれも失敗に終わりました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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