4月19日 <親日家のライシャワー大使が日本に着任(1961年=昭和36)>

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1961年(昭和36)のこの日、日本研究家のE.O.ライシャワーが駐日大使として着任しました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

ライシャワー(Edwin Oldfather Reischauer)はアメリカの歴史学者で日本研究家でした。

<ライシャワー氏近影>

父親(A.K.ライシャワー)は宣教師で、その父が日本で活動している時期に東京府東京市芝区白金台町の明治学院内宣教師住宅で1910年(明治43)生まれたので、日本生まれなんですねぇ。

 

1927年(昭和2)には帰米しオバーリン大→ハーバード大大学院→ハーバード大講師という経歴を重ねます。ハーバード大では東洋学を学んでいました。

 

1935年(昭和10)には再び来日し東京帝国大学で日本研究家として活動します。

 

第2次世界大戦中はアメリカ政府の対日政策立案に協力しました。戦後はハーバード大教授として日本研究の指導的役割を果たしました。その広い視野にたった日本近代化の積極的理解は近代化論と呼ばれていました。それは日本をアジアにおいて近代化を達成した最初の国ととらえ、発展途上国のモデルと考えるもので、その当時マルクス主義的研究が主流だった日本の学界にも大きな影響を与えました。

 

屈伸の親日家ということもあり、ケネディ大統領の要請で駐日大使に任命されたライシャワーが着任したのは1961年(昭和36)4月19日でした。

 

日本生まれで、日本人の妻を持つ親日派大使という事もあり、日本国民の人気があったライシャワーの言動は常に注目を集めました。

 

駐日大使時代は、皇族、政財界の大物だけでなく、宗教関係者、労働組合関係者や一般市民など様々な人々との対話を重ね、日米のパートナーシップ関係の構築に力を注ぎました。

 

1964年(昭和39)3月にはアメリカ大使館門前においてナイフで刺される「ライシャワー事件」が起き、その治療で輸血を受けた際の発言

「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」

は日本人の心にじぃ〜んと沁み入りました。

 

1966年(昭和41)には駐日大使を辞任して帰国後、ハーバード大学教授に帰任しました。その後も、日本に大きな影響をもちつつ活躍を続けましたが、1990年(平成2)に日本での襲撃の際に輸血された血液がもとで持病となっていた肝炎が悪化し、亡くなっています。その遺言には以下の様なものもあったそうです。

遺灰は、「日本とアメリカの架け橋になりたい」との遺言により太平洋に撒かれた。
(Wikipedia「ライシャワー」から引用)

 

下の写真はライシャワーの書いた日本史の本です。毛色の変わった切り口なので、違う視点から日本の歴史を見ることが出来る興味深い一冊ですよ。

ライシャワーの日本史 (講談社学術文庫)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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