10月15日 <毘盧遮那仏建立の詔が発せられました(743年=天平15)>

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743年(天平15)のこの日、聖武天皇は行幸先の紫香楽宮(しがらきのみや)で毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)造立の詔をお発しになられました。

これは奈良時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

743年(天平15)の今日、聖武天皇は行幸先の紫香楽宮で毘盧遮那仏造立の詔をお発しになられました。これが、奈良東大寺金堂(大仏殿)の毘盧遮那仏です。

これは、以前難波宮への行幸の途中にお立ち寄りになられた河内国智識寺で毘盧遮那仏を拝して感動したことが動機になったと伝えられています。

この「毘盧遮那仏」という言葉は、サンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で、盧遮那、或いは遮那とも言うそうです。

 

聖武天皇がこの詔を発せられた頃は、結構大変なことが色々とあったのです。

 

この天平の時代には各地で飢饉や疫病(天然痘)が続き、社会の動揺も広まっていったのです。

740年(天平12)年には、当時勢力が衰えていたした藤原氏のなかから式家の系列の藤原宇合(藤原うまかい)の長子で大宰府に赴任していた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が玄昉(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)らの排除を求めて九州で兵を動員し、藤原広嗣の乱を起こしました。

その乱は中央から派遣された大軍との激戦ののち鎮圧されますが、政府の動揺はおさまらず、それから数年の間、聖武天皇は恭仁(くに)京(京都府木津川市)、難波宮(大阪市)・紫香楽宮(滋賀県甲賀市)などに都を転々と移すことになったのでした。

 

こうした政治情勢と社会的不安のもと、仏教をあつく信仰していた聖武天皇は、仏教のもつ鎮護国家(ちんごこっか)の思想によって国家の平和と安定をはかろうとしました。

741年(天平13)には、「国分寺建立の詔」を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けさせることにしました。

ついで、743年(天平15)の出されたのが、今日ご紹介している「毘盧遮那仏造立の詔」です。

仏教による国家の安定を願え、聖武天皇は

「天下の富を有(たも)つ者は朕(ちん)なり、天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る」

と仰せになり、一枝の草、一把の土をもって造像に参加することを人々に呼びかけておられます。

 

この毘盧遮那仏造立には10年の歳月を要し、完成したのは聖武天皇が娘の孝謙天皇に譲位して太上天皇となった時代の752年(天平勝宝4)のことでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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