10月 出来事

10月26日 <中山みき、天理教をひらく(1838年=天保9)>

179年前の今日、中山みきが「月日(神)のやしろ」となり、宗教者として生きることになりました。この1838年(天保9)10月26日が天理教立教の日とされています。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは5分程度で読める記事です。
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1.解説

 

中山みきは、1798年(寛政10)に大和国山辺郡昧田村の庄屋という家柄の前川家に生まれました。前川家は代々浄土教の檀家で、みき自身信仰が厚かった様です。

みきは1810年(文化7)、何と12歳で中山善兵衛と結婚しています。

 

1838年(天保9)10月23日、長男・秀司の足痛の治療のために、修験者・中野市兵衛に祈祷を依頼しました。その時、みきが加持代となっていました。

ところが、その時みきが異常な振る舞いを示したのです。まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる神がかり状態になったかと思うと、別人の様な声になって

 

「みきを、神のやしろ(神意伝達者)としてもらいうけたい!」

 

と叫んだのです。

 

夫の善兵衛は当惑し、丁重にお断りしたのですが、憑依した神は許してくれないどころか、拒めば中山家は跡形もなく抹殺する…というのです。

三日三晩の押し問答の末、10月26日の朝になって、夫の善兵衛がみきを「神のやしろ」となることを承知しました。この瞬間、中山みきは、宗教者として生きる道を進むことになり、それと同時に天理教が誕生した瞬間でもあったのです。

 

幼くして嫁ぎ、夫の気まぐれと子供の病気とに悩まされ続けてきたみきは、もうストレスで押しつぶされそうになっていました。そうしたみきの救いを求める声が天理王命(てんりおうのみこと)がお聞きとどけになられたのでしょうか。

 

その後、1853年(嘉永6)以降、みきは宗教者としての活動を本格化させました。

みきは、教義として「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」などを定め、信者たちに歌や手振りを交え、簡単な文章によって布教を行いました。

 

明治時代、政府に厚く保護された神道は、庶民のあいだから自主的におこった天理教を邪教として、あらゆる手段で迫害しました。また、官憲の弾圧をうけてたびたび留置されることもありましたが、みきやみきの子供たちは屈することなく布教活動につとめ、信者たちも、みきを激励し、自分たちの信仰を守り通したのでした。

 

 

この天理教誕生の時のことがWikipediaに詳しく書かれていますので、以下に引用しておきますね。

天保9年10月23日(1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえたとされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依し天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている。みきの三男で後の初代真柱・中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた。天理教では、この日を「立教の元一日」と称し、ここから天理教の歴史が始まったとされる。

(Wikipedia「天理教」から引用)

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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