1909年(明治42)のこの日、ロシア蔵相ココフツォフとの列車内会談を終えて東清鉄道ハルビン駅に降りたところを、韓国の独立運動家安重根(あんじゅうこん)に撃たれて亡くなりました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1905年(明治38)の日露戦争の勝利によって日本の大陸進出は本格化しました。
すでに日露戦争中の1904年(明治37)に日本は各国と第1次日韓協約を締結し、日本人顧問を派遣して韓国の財政と外交とに介入しました。
翌1905年(明治38)には、アメリカとの間に桂・タフト協定を取り交わし、日本の韓国、アメリカのフィリピンに対する指導権を相互に確認しあいました。次いで、同年11月には、第2次日韓協約(韓国保護協約、乙巳(いっし)保護条約)を結んで日本は韓国の外交権を握りました。そして、漢城(現在のソウル)に韓国統監府(とうかんふ)をおき、元老の伊藤博文が初代統監となって統監政治を始めました。こうして日本は韓国を保護国としました。
これに対して韓国は1907年(明治40)6月、ハーグの万国平和会議に皇帝の密使を送って抗議しましたが、受け入れられませんでした。これをハーグ密使事件といいます。
日本はこの事件をきっかけに、同年7月、韓国皇帝を退位させ、第3次日韓協約を結んで、その内政権を奪い、韓国の軍隊を解散させました。韓国内にはこれに反対して反日武装闘争の気運が高まり、解散させられた軍隊もこれに加わり義兵運動が盛り上がりましたが、日本は軍隊を出動させてその鎮圧にあたりました。
初代統監の伊藤博文は1909年(明治42)6月に辞任し枢密院議長に復帰し、第二次統監には曾禰荒助(そね あらすけ)が就任しました。その伊藤博文は同年10月極東情勢をめぐる日露関係の調整のため渡満し、1909年(明治42)のこの日、ロシア蔵相ココフツォフとの列車内会談を終えて東清鉄道ハルビン駅に降りたところを、韓国の独立運動家安重根(あんじゅうこん)に撃たれて亡くなりました。
その安重根は、救国の英雄としてその後ひそかに尊敬され、現在ではソウル市内にその銅像、安重根義士記念館があります。
この出来事をうけ、日本は翌1910年(明治43)8月、ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし、その名称を朝鮮に、漢城を京城と改めて天皇直属の朝鮮総督府をおいてその統治にあたりました。
日本がこの様に韓国の支配・領有に積極的だったのには大きな2つの理由があります。一つは軍事的な背景です。ロシアの南下を阻止して日本の安全を確保するためには、韓国を日本の支配下に置くのは不可欠と考えられていたのです。二つ目は、経済的な背景です。欧米の列強諸国にくらべ、資本主義の発展に大きな遅れを取っていた日本は、海外市場を欧米諸国に抑えられ、地理的には断然有利なはずの中国市場においてさえ、欧米の資本に対抗することは極めて困難でした。このような経済的な苦境のなかで何とか手にしたチャンスが韓国市場だったわけです。韓国併合に関する話はまた別の日にしましょう。
こうした韓国人民の恨みを買う様な状況、その負の想いを一身に負った形で亡くなった伊藤博文でしたが、日本にとっては、その当時の最も調整力のある「調停者」を失うという結果になってしまいました。
2.他の年、この日の記事
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今日はここまでです。
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