10月30日 <尾崎紅葉、他界 (1903年=明治36)>

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1903年(明治36)のこの日、明治期の文壇で活躍あいた尾崎紅葉が胃癌により他界しました。享年37歳でした。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

先日 、泉鏡花が尾崎紅葉に弟子入りした日のことを記事にしましたが(10月19日 <泉鏡花、尾崎紅葉に弟子入り(1891年=明治24)>)、今回の記事はその尾崎紅葉に関するものです。

1890年代の文壇の主流を占めていたのは硯友社のグループで、その中心に居たのが「多情多恨」「金色夜叉」などを書いた尾崎紅葉でした。

1867年(慶応3)に江戸で生まれ、本名を徳太郎という紅葉は、早くに母の庸を亡くしたため、母方の祖父母に育てられています。1883年(明治16)大学予備門に入学し、山田美妙・石橋思案・丸岡九華らと知り合い、1885年(明治18)には硯友社を結成し、機関誌「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を創刊します。これが文学活動の第一歩でした。

1889年(明治22)には悲劇的ロマンス「二人比丘尼色懺悔」を「新著百種」第一号として発刊し、これが出世作となりました。

この年、大学に在籍のまま読売新聞社員となり、以後同紙に創作を発表していきます。

ある時期は井原西鶴に心酔し、その影響のもとに書かれた「伽羅枕(きゃらまくら)」、その後も自らの進路を探り、文章の修練を続けた紅葉は「三人妻」「男ごゝろ」「心の闇」「多情多恨」といった作品を世に送り出して行きます。

1897年(明治30)からは「金色夜叉」の執筆に全力を注ぎます。この作品は時代社会の潮流をとらえ、金力と愛情との争いのなかで人間の生きる課題を発見しようとした野心作でしたが、新聞小説の制約上、興味の中心は男女主人公の運命に向けられてしまった傾向もあります。そうした事情もありましたが、貫一・お宮の名前は広く大衆の心に刻まれ、その後演劇・映画・流行歌などを通してひろく普及したのでした。

紅葉は、この「金色夜叉」の執筆に苦しんで健康を害し、佐渡をはじめ修善寺・成東など各地に旅行したりして療養につとめましたが病状は好転しませんでした。そして遂に1903年(明治36)3月に大学病院に入院し胃癌と診断され、金色夜叉の執筆は中断され未完に終わりました。

 

1903年(明治36)のこの日、紅葉は東京市牛込区横寺町(現・新宿区横寺町)の自宅で他界しました。享年37歳。青山墓地に葬られました。Wikipediaに紅葉の最期の言葉についての記述があります。

紅葉の最期の言葉は、見舞いに来た人々の泣いているのを見て言った、「どいつもまずい面だ」だったという。

 

紅葉の未完の代表作「金色夜叉」、熱海の砂浜でお宮を貫一が足蹴にするシーンや、その際の「今夜今宵のこの月を、俺の涙で曇らせてみせる…」といった言葉は特に知られていますが、原作を手に取られて見られるのはまた格別の感興が湧いてきますよ。


金色夜叉 (新潮文庫)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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