329年前のこの日、柳沢保明(やなぎさわやすあきら)が、将軍の身辺雑事を扱う御小納戸役(おこなんどやく)から側用人に大抜擢されました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、初名を房安・保明といい、今日の記事ではまだ、その柳沢保明のころのことです。
父親の柳沢安忠は館林藩主時代の徳川綱吉に仕え、保明もまた小姓として近侍していました。そして、綱吉の将軍就任にともない幕臣となりました。
1688年(元禄元)のこの日、柳沢保明が、将軍の身辺雑事を扱う御小納戸役(おこなんどやく)から側用人に大抜擢され、他の側用人が大名であったため、1万石を加増されました。
以後も江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の寵愛は続き、数度の加増と異例の昇進で老中格・老中上座となり、1701年(元禄14)には松平の家号と、将軍の諱の一字の「吉」を与えられて松平吉保と称しました。
ところが、それだけではありませんでした。1704年(宝永元)には、甲府城主の綱豊(のちの徳川家宣)が綱吉の継嗣にきまると、そのあと甲府城をたまわって15万石となったのです。甲府は、それまで徳川親族や親藩がおかれるか、もしくは幕領かで在った場所だけに、その出世ぶりは異例のものでした。
その加増の物凄さを見てみましょう。
- 最初:館林藩で禄高160石と蔵米370俵を与えられ小姓組番頭
- 1680年(延宝8):綱吉が将軍となったときに幕臣・小納戸役
- 1681年(天和元):300石を加増され、蔵米も禄高にあらためて830石
- 1688年(元禄元):1万石を加増
- 1694年(元禄7):川越藩主として72,000石を領して老中格
- 1704年(宝永元):甲府城主15万石
そうして柳沢保明は、荻生徂徠・細井広沢ら学者を重用して元禄期の幕政を主導したこともあり、そのため、保明は綱吉の側用人政治の代表者と目され、後世、綱吉への批判を一身に浴びることになりました。
しかしながら、保明自身には専制的な側面は薄かったそうです。そうした保明自身は、綱吉の死後にすぐに隠居をしたくらいで、批判はされたものの罰せられたということはなかったのでした。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
- 2016年記事:<平徳子が安徳天皇を出産(1178年=治承2)>
今日はここまでです。
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