11月15日 <幸徳秋水らが平民社を結成。平民新聞創刊(1903年=明治36)>

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1903年(明治36)のこの日、日露戦争開戦の危機が深まっている現状を憂えた幸徳秋水・堺利彦らは平民社を結成し、平民新聞を発行して、社会主義の立場から反戦運動を展開しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

三国干渉以来、日本国内では、国民の間にロシアへの反感が広まっていました。

1900年(明治33)には近衛篤麿(このえあつまろ)・神鞭知常(こうむちともつね)・頭山満(とうやまみつる)らを中心に、野党系(憲政本党・帝国党)政治家や新聞記者などを集めて国民同盟会が結成され、対露強硬論を展開しました。

この国民同盟会はいったん解散しましたが、1903年(明治36)には対外硬同志会(たいがいこうどうしかい。のちの対露同志会)として再発足し、戸水寛人(とみずひろんど)ら東京帝大の7博士や有力新聞などと共に、強硬な主戦論を叫んで世論を盛り上げました。

 

この世論形成に大きな役割を果たしたのが新聞でした。ロシアと清国との間で結ばれた協定で、1903年10月8日を期限として満州からの第3次撤兵を行うことになっていましたが、その約束をロシアが反故にしたため、「大阪朝日新聞」「東京朝日新聞」「万朝報」「二六新報」など発行部数が10万部前後の日刊有力紙は、殆どが対露開戦論一色となったのです。

その最先鋒は「二六新報」で

現内閣を倒して主戦内閣を作るは、目下の急務也

と論じるほどでした。

1903年(明治36)10月以前は、内村鑑三らキリスト教的人道主義者や社会主義者幸徳秋水らの非戦論の主張も掲載していた「万朝報」も、社論を開戦論に一本化し、開戦反対派の代表格とされていた元老伊藤博文枢密院議長を厳しく非難して、その引退を勧告する社説を掲げるほどでした。

 

そうした対露強硬の世論が高まるなか、幸徳秋水と堺利彦(枯川)は記者として勤務していた「万朝報」の朝報社を非戦論を主張を貫くために退社し、1903年(明治36)のこの日、平民社を結成し、週刊「平民新聞」を創刊しました。

Wikipediaに平民社の写真があったので、無断借用してきました。写真またはその下の青文字をクリックするとWikipediaの大きな写真が見られます。

<平民社>
(Wikipedia「平民社」から無断借用)

 

この平民社は「平民新聞」の発行のほか、平民文庫の出版や講演会・地方遊説など社会主義の啓蒙を行いました。平民新聞では、日露戦争に非戦論を唱え、社会主義思想の普及と国際的連帯に努めましたが、日露戦争さなかの1905年(明治38)1月29日発行の第64号をもって廃刊に追い込まれました。

平民社そのものも、日露戦争直後の弾圧などで同年10月9日解散させられてしまいました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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