11月6日 <内村鑑三、アメリカへ出発(1884年=明治17)>

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133年前のこの日、キリスト教伝道者の内村鑑三は横浜を出帆してアメリカへ向かいました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

実は、拙blogで内村鑑三を取り上げるのは2回目です。前回は1月9日<内村鑑三の不敬事件が発生(1891年=明治24)>でした。

その内村鑑三は、1861年(万延2)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川で生まれました。

1873年(明治6)に単身上京した内村は、有馬学校英語科→東京外国語学校(編入)と進み英語の勉強に打ち込みます。東京英語学校を終了すれば東京帝国大学への進学が認められていたのですが、その内村にある転機が訪れます。

1876年(明治9)に北海道開拓に携わる技術者を養成するために創設された札幌農学校の説明を北海道開拓使の役人から聞き、また内村自身の経済的な理由もあって札幌農学校に官費生として通える特典に心を動かされて入学を決意したのです。

 

その頃の札幌農学校には有名な教頭先生が居られました。あの「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」という言葉によって今日我々にも知られているウィリアム・スミス・クラークです、そうしたお雇い外国人教師の影響もあり、1878年(明治11)に内村は洗礼を受けました。

 

札幌農学校では水産学を専攻した内村は、1881年(明治14)に札幌農学校を農学士として首席で卒業しました。

その後、北海道開拓使や農商務省の役人として働くかたわら、札幌独立境界の設立に尽力するなどキリスト者としての活動も活発に行っていた内村は、1883年(明治16)夏に訪問した群馬県の安中教会で知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って1884年(明治17)3月28日に結婚しました。

しかし、半年後には妻タケの異性関係の疑惑がもとで破局して離婚してしまいます。

タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、1884年(明治17)のこの日、内村は傷心のうちに横浜を出帆しアメリカに向かって旅立っていきました。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

今日はここまでです。

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