12月16日 <近衛文麿元首相、青酸カリ服毒で世を去る(1945年=昭和20)>

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1945年(昭和20)のこの日、元首相の近衛文麿は、GHQからのA級戦犯としての逮捕命令を受け、青酸カリえお服毒して自らの命を絶ちました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

近衛文麿(このえふみまろ)といえば、五摂家の近衞家の第30代目当主で、後陽成天皇の12世孫にあたるバリバリのお公家さんで、明治時代は公爵という地位でした。

その文麿は、青年時代の第一次世界大戦直後に、英・米中心の国際平和主義に反対する評論の「英米本位の平和主義を排す」を書いたりしたこともあって、陸軍側から政党政治と協調外交とを打破する革新政治家として期待されてしまったのです。また、国民の間からも「政党政治の腐敗」に汚されていない政治家として、その若さ(第一次近衛内閣組閣時45歳)と清新さに大きな期待と人気とが集まっていました。

 

以下に、文麿が総理をやっていた時にどんな事があったかを見てみましょうか。

  • 1937年(昭和12)6月 第一次近衛内閣:翌月盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が泥沼化。
  • 1940年(昭和15)7月 第二次近衛内閣:新体制運動を展開し、「革新」政策を実施。対外的には日独伊三国同盟を締結して「南進」政策を推進。
  • 1941年(昭和16)7月 第三次近衛内閣:対米調整に反対する松岡洋右外相を放逐するために総辞職して第三次内閣を組閣。南部仏印進駐により日米交渉を破局に陥れ、外交 or 開戦の二者択一を迫られて同年10月に総辞職。

1941年(昭和16)10月半ば頃、文麿は、いまなお開戦をためらっていました。中国からの撤兵問題でアメリカに譲歩しても、日米交渉を継続しようとしましたが、当時の陸軍大臣の東条英機は撤兵に強く反対し、交渉打ち切りを主張して譲らず、遂に第三次近衛内閣は総辞職に追い込まれたのでした。

 

1945年(昭和20)8月に第二次世界大戦が終戦を迎え、戦犯が次々と捕らえられていきましたが、文麿のもとにも同年12月6日に、GHQからの戦犯としての逮捕命令が伝えられました。文麿がA級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した瞬間でした。

しかし文麿は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日である同年のこの日の明け方に、青酸カリを服毒して自らの世を去ったのでした。

54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では最も若い没年齢で、しかも総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞文麿唯一人なんですよ。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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