1844年(天保15)のこの日、徳川斉昭は極端な廃仏など政策の過激さにより、幕府から謹慎処分を命じられました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
徳川斉昭(とくがわなりあき)は、1829年(文政12)に兄の徳川斉脩(とくがわなりのぶ)の養子となり、遺領を相続して常陸国水戸藩第9代藩主となりました。
斉昭は、改革派の会沢正志斎(あいざわせいしさい)・藤田東湖(ふじたとうこ)・戸田蓬軒(とだほうけん。戸田忠太夫のこと)らを登用して意欲的な藩政改革を推進し、また、内憂外患の危機を乗り越えるための幕政改革を将軍に提言するなど、幕末の政治に大きな役割を果たしましたが、1844年(天保15)5月6日、幕府から謹慎処分を命じられました。
処分の理由は、以下の政策や行動が幕府にとっては急進的なものとして警戒されたためでした。
天保の藩政改革に於いて、
- 神道中心の宗教改革を採用して寺院を整理したこと
- 寺請(てらうけ)制度に代わって氏子(うじこ)改めを行ったこと
- 寺の鐘を潰して大砲を鋳造したこと
- たびたび蝦夷地開拓を出願したこと
- 藩校弘道館(こうどうかん)を設置し神儒一致思想を鼓吹(こすい)したこと
- 本来江戸定府である水戸藩主が長期間水戸に滞在したこと
この謹慎は同年11月に解かれますが、この処分によって水戸藩の天保の改革は頓挫してしまいました。
この謹慎の9年後、ペリーが来航した1853年(嘉永6)には、幕府海防参与となり、大船建造や軍制改革に参画など幕政に深く関わりました。
さらに第13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題では、息子(七男)の一橋慶喜を擁して一橋派を形成し、井伊直弼ら徳川慶福(徳川家茂のこと)を擁す南紀派と争いましたが、大老となった直弼は慶福(家茂)を第14代将軍としたのでした。
そして、直弼が日米修好通商条約を独断で調印したため、1858年(安政5)6月24日に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主松平慶永と尾張藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)、一橋慶喜らと江戸城に不時登城して井伊直弼を詰問したため、翌7月に直弼から江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられてしまいました。
翌1859年(安政6)には、安政の大獄に連座して国元永蟄居を命じられ、斉昭の政治生命は絶たれたのでした。
余談ですが、あの名君のほまれ高く「水戸黄門漫遊記」などが創作されたことで有名な水戸光圀こと徳川光圀(とくがわみつくに)も水戸藩主で、光圀は第2代藩主でした。
2.他の年、この日の記事
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今日はここまでです。
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