12月19日 <秀吉、豊臣に改姓(1586年=天正14)>

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1586年(天正14)のこの日、秀吉が太政大臣となり、豊臣姓を賜りました。

これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

豊臣氏という氏は、豊臣秀吉の時に新しく創られたものなのです。その子秀頼の2代て絶えてしまいましたがね。

 

この異例のスーパー大出世を遂げて成り上がった秀吉は、はじめは木下氏、ついて羽柴氏を称しましたが、1582年(天正10)の本能寺の変後は織田信長の後継者として平氏を使い、平秀吉を名のっていました。

1585年(天正13)7月には、関白職就任に際し、ときの左大臣近衛信輔の父前久の猶子となって藤原秀吉を称しました。そうして秀吉は、摂家以外に関白となった例のない伝統の障壁を越えたのです。

 

ところが、俗人が藤原の姓を名乗ることに問題があり、学者らにも意見を聞き、秀吉は次の様な要求をしました。

秀吉が、大村由己に執筆させた「任官之事」(別名「関白任官記」)によると、

この段階で秀吉は源平藤橘の四姓といえども、もとはその人の器用により制定されたもの、自分が前人未踏の出世をとげたからには新姓の創出あって五姓とすべしと、菊亭晴季(きくていはるすえ)に相談のうえ「天長地久、万民快楽」の意をこめた姓を賜わるよう願った。

という事が書かれています。

「押小路家文書」には「請、以藤原姓、改豊臣姓」の奏状があり、同年9月9日付「関白秀吉改豊臣」宣旨」が残されています。しかし、「公卿補任」は天正14年条になお「藤秀吉」と載せ、「ーー改藤原姓、為豊臣云々」と注があるので、実際の改姓勅許は後陽成天皇即位の同年11月以後、1586年(天正14)のこの日の秀吉の太政大臣就任を機にしたと考えるのが通説です。

 

改姓は秀吉の意向でなされたものですが、近衛家にも、当初より「近衛殿ノ称号ヲケカス処」への憂慮もあり、望ましいと思われたであろうと考えられています。

豊臣姓は秀吉に次いで弟秀長・甥秀次(秀吉の養子)、さらに宇喜多秀家にも与えられ、1588年(天正16)緊楽第行幸の際、誓詞を提出したその他23名の大名中、大友義統・稲葉貞通・池田照政・細川忠興・蒲生氏鄉・結城秀康ら、何と20名が豊臣を称し、この姓が秀吉の大名掌握策の1つとして都合よく用いられたことがわかります。

 

こうして創られた豊臣姓でしたが、1598年(慶長3)秀吉の死後は秀頼が嗣いだものの、1615年(元和元)大坂夏の陣で徳川家康のために滅ぼされてしまいました。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

今日はここまでです。

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