1890年(明治23)のこの日、北里柴三郎は同僚のベーリングと協力して、ジフテリアおよび破傷風の血清療法を発見しました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は明治時代の細菌学者です。
柴三郎は、20歳のときに熊本医学校に入学してマンスフェルトに学び、さらに東京医学校に入学して医学を学びました。卒業後、国民の疾病を治療し予防する行政医の道に進むため内務省衛生局に入りました。
そののち、ヨーロッパに渡って1886年(明治19)にロベルト・コッホに師事して細菌学を学び、コッホ四天王の一人と言われました。1889年(明治22)にはじめて破傷風病原菌の純培養に成功し、翌1890年のこの日、同僚のエミール・アドルフ・フォン・ベーリングと協力して、ジフテリアおよび破傷風の血清療法を発見しました。
そして2年後に帰国し、福沢諭吉らによって設立された東京・芝の伝染病研究所の所長となり、同所を辞任したあとは氏の名を冠した北里研究所を1914年(大正3)に設立し所長になり活躍しました。
今回の記事のジフテリアおよび破傷風の血清療法の発見に関して協力関係にあったベーリングは、1890年12月4日、ドイツ医学週報第49号に「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」を北里柴三郎との共著として発表しました。ところが、次号の第50号においては、北里との共著ではなく、自身の名前のみでジフテリアについてデータを発表したのですね。
そのことにより、ベーリングは1901年 「ジフテリアに対する血清療法の研究」で第一回ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
これって、何か変な感じがします(小生の正直な気持ちです)。
これについて、Wikipediaに興味深いことが記載されているので以下に引用しますね。
第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考に当たった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられている。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみつかっていない。
(Wikipedia「北里柴三郎」から引用)
1901年 「ジフテリアに対する血清療法の研究」で第一回ノーベル生理学・医学賞を受賞。受賞に際し、自分だけの功績ではなく、共同研究者の北里柴三郎あっての結果であることを述べたとされる。北里が受賞できなかったのは、ジフテリアについてのデータを単独名の論文で発表したこと、ノーベル委員会や選考に当たったカロリンスカ研究所が血清療法のアイディアはベーリングの創出で北里は実験事実を提供しただけとみなしたこと、賞創設後最初の選考で後のような共同授賞の考え方がまだなかったことが要因として挙げられている。
(Wikipedia「エミール・アドルフ・フォン・ベーリング」から引用)
余談ですが、北里大学という大学がありますが、これは北里研究所の創立50周年記念事業で1962年(昭和37)に設立されたものです。口の悪い友人が
「ポックリ大学」
と言っていました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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