12月5日 <松平清康、命を落とす。守山崩れ(1535年=天文4)>

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1535年(天文4)のこの日、尾張国守山に出陣していた松平清康は、家臣阿部大蔵の子弥七郎に背後から刺され命を落としました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

松平清康は、戦国時代の武将で三河国岡崎城(現・愛知県岡崎市)の城主でした。あの徳川家康の祖父にあたります。

1523年(大永3)に松平宗家を継いだ清康の生涯は極めてドラマティックなものでした。

 

清康が大きく力を伸ばし始めたのは1525年(大永5)14歳のときの岡崎城入城からでした。当時岡崎には一族の松平信貞が居ました。ところが信貞は額田郡山中に支城を構えて、宗家の下知に従わなかったので、清康はこれを攻略し、岡崎城を居城としました。以後、家康が浜松にその居を移すまで、岡崎は松平宗家の拠点となりました。

翌1526年(大永6)には加茂郡北部の旧族鈴木氏を下し、1529年(享禄2)には東三河に行動を開始し、牧野伝蔵を御油(ごゆ)に破り、つづいて渥美郡田原城を攻めて戸田氏を降伏させました。さらに同年の秋には一転して尾張に侵攻し、品野(三河・尾張・美濃三国の国境地帯)・岩崎(小牧の辺り)の二城を攻略しています。その後再び東征して八名郡宇利の熊谷氏を攻め、これを服属させています。

まさに東奔西走の大奮闘です。

 

このように三河の東西をおさえた清康は、1535年(天文4)に大挙して尾張に攻め入りました。同年12月4日には春日井郡守山に陣を進めました。ここは織田氏の清州城から東方5kmほどの地点です。

ところが、ふとした行き違いから、同年のこの日の早朝、清康は家臣の阿部弥七郎に背後から刺されて陣没してしまい、松平勢は退却を強いられました。

その行き違いとは、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こり、これを阿部弥七郎は、父の阿部大蔵が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を背後から刺してしまった、というものでした。

 

それまで多少の紆余曲折があったにせよ、群雄割拠の戦乱の世を自らの領国を広げ発展してきた松平家でしたが、この出来事をきっかけに一挙に挫折してしまったのでした。

これから四半世紀の間、三河は今川・織田両家の支配下に入り、松平の宗家を継いだ広忠・家康はもとより、その一族・家臣もまた非常に辛く苦労の多い時期を過ごさねばなりませんでした。

世にこの出来事を「守山崩れ(森山崩れとも)」といいます。

蛇足ですが、この出来事の四半世紀先に起こり、松平家が息を吹き返すことになった出来事は、あの「桶狭間の戦い」です。

そして、松平氏が三河を再統一するのは1566年(永禄9)に清康の孫にあたる家康のときで、この守山崩れから31年後のことでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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