1159年(平治元)のこの日、平清盛は一家揃って熊野詣でに出かけ京都をあとにしました。この清盛の留守を狙って藤原信頼が平治の乱を起こしました。
これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1156年(保元元)に起こった保元の乱(ほうげんのらん)後、後白河上皇の近臣間では、藤原通憲(ふじわらのみちのり。信西:しんぜい)と藤原信頼との対立が深まっていました。
そうしたなか、信西は畿内を中心に西国を基盤とする清盛と結び、その武力を背景に朝廷の実権を握ったのです。
1159年(平治元)のこの日、清盛は一家揃って熊野詣でに出かけ、京都を離れました。
その時、信西・清盛の派閥と対立していた、藤原信頼は、この留守のすきに乗じて源義朝の兵を蜂起させ、信西の一族を殺害しようとする計画を立てたのでした。この計画が同月9日に決行された平治の乱(へいじのらん)でした。
言い方を変えれば、平治の乱のきっかけを作ったのは、ほかならぬ清盛の熊野詣でであったとも言えるのです。
熊野詣でって? と思われますでしょ。小生も同じくなので調べました。
熊野詣では、和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に参詣することをいいます。
平安中期頃から修験者たちが修行地として好んで参集しており、この修験者の間に教団が編成されて、熊野三山は天台系修験の一大拠点となっていきました。
平安後期の院政時代には法皇・上皇が頭陀行(家々をまわり、食物などを乞い、信者に功徳を積ませるための修行のこと)のために度々熊野三山を参詣しました。
室町時代中期以降は、その人気も衰えて全盛時の面影すら見られなくなっていきました。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
今日はここまでです。
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