12月4日 <高橋景保が世界地図の作成を命じられる(1807年=文化4)>

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1807年(文化4)のこの日、幕府天文方の高橋景保(たかはしかげやす)が蘭書を参照して世界地図を作成することを命じられました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1807年(文化4)のこの日、幕府天文方の高橋景保が蘭書を参照して世界地図を作成することを命じられました。景保は、長崎のオランダ通詞 (つうじ:通訳のこと)である馬場佐十郎(ばばさじゅうろう)の助力を得て翻訳をすすめ、2年後には、永田善吉(ながたぜんきち。亜欧堂田善:あおうどうでんぜん、とも呼ばれています)にその銅版を作らせました。その作業の結果が1809年(文化6)「新鐫総界全図附日本辺界略図(しんせんそうかいぜんずつきにほんへんかいりゃくず)」、1810年(文化7)「新訂万国全図(しんていばんこくぜんず)」に結実しています。

 

高橋景保は、江戸時代後期の天文学者で、やはり天文学者であった高橋至時(たかはしよしとき)の長男です。大坂で生まれましたが12歳の時、父のいる江戸に出て、父から天文暦学を学び、また昌平黌でも学びました。1804年(文化元)には病気で亡くなった父の跡を継いで弱冠20歳で幕府の天文方に任命されました。

 

上記の世界地図作成の傍ら、他の業務にも精力的に活動しており、1811年(文化8)蛮書和解御用(ばんしょわげごよう:江戸幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関の役職名)の創設につとめ、以降これの主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めています。1814年(文化11)には御書物奉行に任ぜられて天文方筆頭となっています。

 

また、天文方と兼任で測量御用を命ぜられた景保は、父の至時に師事した伊能忠敬(いのうただたか)の全国測量事業を引き継ぎ、忠敬の没後はその「大日本沿海輿地全図」を完成させています。その他にも、地図作成の参考調査のため、カラフト研究の「北夷考証」を著し、ケンペル・ゴローニン・クルーゼンシュテルンなどの著書の訳出や校訂を行っていたり、或いは満州語を研究したりしています。

 

このように、様々な方面でその才能を発揮していた高橋景保でしたが、この造詣が命取りとなってしまいました。1828年(文政11)シーボルトに禁制の日本地図などを渡していたことが発覚し、獄中で病の為に亡くなっています。享年45歳、まだまだ、先の活躍が期待された景保の早すぎる他界でした。

 

このシーボルト事件ついては、この記事も併せてご一読下さい。→9月25日 <江戸幕府、シーボルトに国外退去を申し渡す(1829年=文政12)>

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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