12月6日 <持統天皇が藤原京に遷られました(694年=持統8)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

694年(持統8)の今日、持統天皇は新しく造営した藤原京に遷られました。この藤原京は、日本最初の中国風の壮麗な皇宮で、はじめてこの地を視察してからわずか4年、当時としては極めて短期間で完成されました。

 

645年の大化の改新以来進められてきた、天皇制と官僚制を軸とする中央集権的律令国家の構築は、半世紀を過ぎた7世紀末には完成の域に近づいていきました。二官八省のもとに数十の役所が分属し、そこで働く役人・事務員など下級職員までを含めると恐らく1,000人を上回る人数の人員が必要であったであろうと推測されています。そうした多くの職員を収容し、複雑化した朝廷の機能を十分に発揮するためには、当時の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)では手狭になっていたのでしょう。

 

新しい構想のもとに、新しい朝廷を建設することが必要である…持統天皇の心にそうした都づくりの思いが大きくなっていったにちがいありません。

 

新都を作るそいう思いは、持統天皇の御代に始まったものではなく、天武天皇もお考えになられ、候補地の視察をさせたことはありますが。実際の造営には至りませんでした。その造営にかかる費用・労力といったものに国力が耐えうるかに不安があったためと考えられています。持統天皇の時代には、天武天皇のときのような政情の不安も消え、国家の体制も安定した時期でもあったので、いよいよ造都にむけて動き始めました。

 

そうして、耳梨(みみなし)・畝傍(うねび)・香久(かぐ)の三山(現在の、大和三山で、北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)にとりかこまれた平野を予定地に選び、690年(持統4)10月に高市皇子と公卿らに視察させ、持統天皇自身も同年12月にご検分なさっています。そこは藤井ガ原または藤原とよばれ、平坦でかなりの広さがあるうえに交通の便も良かったのでした。宮地はここに決定し、翌691年(持統5)から造営が始まりました。これが藤原宮です。691年(持統5)12月には皇族や官吏に宅地を班給し、692年(持統6)正月には天皇御自ら新宮の道路をご視察なさったという記録が日本書紀にあります。この場所は、現在の奈良県橿原市およびその周辺です。

 

藤原京の造営は、その後も進み693年(持統7)2月には「掘り出した遺骸を収容せよ」という詔が造京司8みやこつくるつかさ)の衣縫(きぬぬい)王らに出されていたことからも造京司という役所があったことも分かります。694年(持統4)法月には天皇が藤原宮に行幸なさっておられるので、造営も進んでいたのでしょう。

 

「藤原の宮の役民(えにたつたみ)の作れる歌」という題の長歌が万葉集に収められており、それによると宮殿建築に要する木材は遠く近江の田上山(たなかみやま)から切り出し、宇治川を巨椋池(おぐらいけ)まで筏で下し、さらに木津川をいまの木津あたりまで上らせて大和に運ばれたとあります。ものすごい数の労働者が造営に従事したものと思われます。

 

この造営の計画については、近年の研究で若干時期が早くなっています。藤原京内の本薬師寺・大官大寺などの発掘調査も行われ、その占有地が京の条坊の地割と一致していることから、この藤原京の計画も薬師寺創建に先立つ天武天皇の御代の末年には始まっていたと考えるのが通説となっています。

 

この藤原京は、その発掘調査の結果をふまえた岸俊男説によれば東西4里(2,12km)、南北6里(3.18km)で左右京には各12条4房の条坊制があったそうですが、近年ではその京城の外部にも直線道路の遺構が発見されており、それらを含んだ「大藤原京」と呼ばれる復元計画が提起されています。その規模は5.3km四方と考えられ、この広さは25k㎡を超え、平城京(24k㎡)や平安京(23k㎡)をも上回るものです。

 

 

今日はここまでです。

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