今日という日はどんな日でしょうか?
日本史の中の出来事を覗いてみましょう。
1.出来事ピックアップ
1911年(明治44)の今日、徳富蘆花(とくとみろか)が第一高等学校で「謀叛論(むほんろん)」と題し、前月18日に死刑判決を受け、24日に刑を執行された幸徳秋水らを弁護する講演を行いました。
2.解説
徳富蘆花は、大逆事件の判決に大きなショックを受けていました。判決を知った翌日は、夫婦でその大逆事件について話し合ったそうです。かれらの動機に深く共感していた蘆花は、なんとか死刑を取止めにしてもらいたいと考え、当時の桂首相の側近であった兄の徳富蘇峰(とくとみそほう)に、桂に減刑の忠告をするように依頼しました。
その一件で悶々としている蘆花に、第一高等学校の学生2人が講演を頼みにきました。来たのは弁論部の委員で、その1人はのちの社会党委員長河上丈太郎(かわかみじょうたろう)で、もう1人は文部大臣となる森戸辰男だったそうです。用件を聞いた魔花はすぐ
「よろしい」
と講演を引き受け、演題について尋ねられると、灰の上に火箸で
「謀叛論」
と書きました。その蘆花の心の中には、「大逆事件の死刑囚の命乞いのためにも…」という思いがあったのでした。
その晩、考え事で眠れない夜を過ごした蘆花は、薄暗いうちに起きて、「天皇陸下に願い奉る」上奏文1篇を草し、これを『朝日新聞』の池辺三山(いけべさんざん)に送り、掲載を依頼したそうです。
「彼等も亦陸下の赤子、元来火を放ち人を殺すただの賊徒には無之、平素世の為人の為にと心がけ居候者にて、此度の不心得も一は有司共が忠義立のあまり彼等を虐め(いじめ)過ぎ候より彼等もヤケに相成候意味も有之、親殺しの企したる鬼子として打殺し候は如何にも残念に奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)」
ところがこれを書いたとき、幸徳秋水らの死刑はすでに執行されていました。午後に来た新聞でそのことを知った蘆花は、大声で妻に叫んだのです。
「オォイもう殺しちまったよ。みんな死んだよ」
蘆花は新聞を声をだして読みながら、無念の涙にくれる妻に「泣くな泣くな」と言いましたが、実は自分も声がつまり、流れ出る涙をとめることが出来なかったのでした。それから蘆花は一高での演説の草稿を作るのに心血を注ぎました。一稿、二稿と書いては消し、消しては書き改めた。「弔の演説」だったのです。
蘆花がやって来るというので演説会は大変な人気で、聴衆は演壇の上まで埋まっていました。
和服に黒紋付、黒い眼鏡を掛けた蘆花は、講壇に登り、静かに口を開きました。
「明治初年の日本の意気は実に凄まじいもので、五ケ条の誓文が天から降る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投出す、自由平等革新の空気は磅ばくとして、其空気に蒸されていた。」
「誰が其潮流を導いたか、我先覚の志士である。所謂志士苦心多しで、新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打開を事とした勤王攘夷の処士にせよ、時の権力から言えばみな謀叛人であった。彼等が千荊万棘(せんけいばんきょく)を渉った困難辛苦……中々一朝一夕に説き尽せるものではない。」
「旧組織が崩れ出したら案外速(すみや)かにばたばたといってしまうものだ。だが地下に火が廻る時日は長い。人知れず働く犠牲の数が要る。然し犠牲の種類も一つではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。僕は斯う思いながら常に井伊直弼の墓のある豪徳寺と松陰神社と谷一つ隔てて並んでいる世田ケ谷を過ぎていた。思っていたが、実に思いがけなく今明治四十四年の劈頭(へきとう)に於て、我々は早くも茲(ここ)に十二名の謀叛人を殺すことになった。たった一週間前の事である。」
「諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君等に悉(ことごと)く大逆をやる意志があったか無かったか、僕は知らぬ。彼等の一人大石誠之助君が云ったと云う如く、今度のことは嘘から出た真(まこと)で、はずみにのせられ、足もとを見る遑(いとま)もなく陥穽(おとしあな)に落ちたのか如何(どう)か、僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死者狂になって、天皇陛下と無理心中を企てたのか、否か。僕は知らぬ」
会場の空気は極度に緊張し、拍手もなければ、咳払いするものもいません。蘆花は続けます。
「大逆罪の企に万不同意であると同時に、彼等十二名も殺したくなかった。生かして置きたかった。彼等は乱臣賊子の名を受けてもただの賊ではない、志士である、自由平等の新天新地を夢み身を献げて人類の為に尽さんとする志士である。基行為は仮令(たとえ)狂に近いとも、其志は隣むべきでは ないか。」
「国家百年の大計から云えば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種子を播いて了うた。忠義立して謀叛人十二名を殺した閣臣こそ真に不忠不義の臣である。」
「諸君、幸徳君等は時の政府の謀叛人と見倣されて殺された。が謀叛を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」
「繰り返して曰う、諸君、我々は生きねばならぬ。生きる為に常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。」
蘆花が静かに降壇すると、我に返った聴衆の拍手に、講堂は割れんばかりであった、ということです。
蘆花のこの講演は、誰かが言わねばならないのに、誰も言えなかった事を率直に語ったものでした。だからこその割れんばかりの拍手だったのでしょうね。
この支配権力に対する無遠慮な批判演説に対し文部省はその責任を追求しました。
「大逆犯人を志士扱いする演説会を開いたのは怪しからぬ」
という理論でした。当時の第一高等学校の校長新渡戸稲造は、いっさいの責任を自分にひきうけたそうです。
骨のある演説を受け止めた、骨のある校長でした。
1月24日付の小blogで、この大逆事件のことについて記事を書いています。併せてご一読頂ければ幸いです。この文章の直後にその記事へのリンクを貼り付けておきますね。
→1月24日 <大逆事件の刑を執行(1911年=明治44)>
今日はここまでです。
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