2月17日 <一乗院覚慶、還俗して足利義秋と改名(1566年=永禄9)>

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1566年(永禄9)のこの日、室町幕府第13代将軍足利義輝の弟であった僧侶の覚慶(かくけい)は、還俗して足利義秋と改名しました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

のちに室町幕府最後となる第15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)は、1537年(天文6)11月に、第12代将軍足利義晴(あしかがよしはる)の次男として生まれました。そのとき、跡継ぎとなる兄の義輝がいたため、1542年(天文11)11月に興福寺一乗院に入室し、覚慶と称しています。

その際、外祖父(母方の祖父)であった近衛尚通の猶子となって、入室したこともあり、門跡となっていました。門跡(もんせき、もんぜき)というのは、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことを言います。外祖父の近衛尚通は公家だったのです。覚慶、そののちに興福寺で権少僧都という管理職にまで昇進しており、高僧としての栄達を約束された境遇でした。

 

しかし、1565年(永禄8)5月に起こった永禄の変で、第13代将軍であった兄の義輝が、その頃幕府の実権を握っていた松永久通や三好三人衆らに居館を襲撃され命を落としたことにより、状況は大きく変化していきました。この永禄の変の際、覚慶も久通らによって興福寺に幽閉されましたが、義輝の側近であった細川藤孝らに助けられて脱出し、近江国に逃れました。

 

翌1566年(永禄9)のこの日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は還俗して足利義秋と名乗りました。その後、義秋は、各地の戦国大名をたよって流浪の旅をしながら、上洛の機会を伺っていましたが、織田信長によって1568年(永禄11)10月に室町幕府最後の第15代将軍足利義昭となったのでした。

 

あ、そうそう、名前が義秋から義昭に変わっていますでしょう。

それは、1568年(永禄11)4月に、義秋の「秋」の字は不吉であるということで、30歳にしてようやく元服式を行って義昭と改名したんですねぇ。

 

後年、この足利義昭は、その独自の政治活動のため、織田信長と不和を生じ、反信長勢力を集めて挙兵しますが、敗れて将軍位を追われることになります。将軍になれたのも信長のお陰で、将軍を辞めさせられたのも信長の力によるものだったのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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