2月17日 <文芸協会の発会式が行われました(1906年=明治39)>

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1906年(明治39)のこの日、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり文芸協会が結成され、その発会式が東京の芝にあった紅葉館で行われました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

文芸協会は、明治・大正期に演劇の研究・公演・俳優養成などの活動を行った団体です。

 

もともとは、大隈重信を会頭とした総合的文化機関で文学、演劇、美術、音楽、宗教、哲学、講談、落語などの革新を意図していましたが、実際のところは、演劇が中心だったそうです。 主唱したのは、イギリス・ドイツの留学から帰国し、演劇・音楽に関心を寄せていた島村抱月です。発起人の中には、文芸協会の後期活動の指導的役割を果たした坪内逍遥も居ました。

 

文芸協会の活動は前期と後期とに分けられます。

 

1906年(明治39)に発足したのち、坪内逍遙やシェークスピアの史劇から、歌劇・喜劇など多くの部門にわたって試演しましたが、約2年で活動を中止しました。ここまでを一般に前期文芸協会といいます。

 

後期は1909年(明治42)に、坪内逍遥が自宅の一部を提供し、演劇研究所を設置した時期からをさします。以後俳優養成も行われ、1911年(明治44)年第1回公演「ハムレット」を上演。第2回の「人形の家」で松井須磨子が主役を演じて人気女優となりました。その間、試演場も完成し、本公演も好評でしたが、種々の内紛が重なり1913年(大正2)第6回公演を最後に解散しました。

 

短期の活動に終わりましたが、文芸協会の近代演劇史に占める位置は大きく、この流れは、1909年(明治42)に小山内薫・市川左団次が中心となって創立した自由劇場、新劇運動の展開につながっていくのです。

 

 

余談ですが…

「人形の家」で主人公ノラを演じて人気女優になった松井須磨子は、その後、1913年(大正2)に、文芸協会の発起人であった島村抱月と芸術座を旗揚げします。そして芸術座の看板女優として活動するかたわら歌手活動も行い、一躍大スターとなりましたが、1919年(大正8)に、不倫関係にあった島村抱月が2ヶ月前に病死した後を追って、自ら世を去る選択をしました。

その松井須磨子は、遺書で抱月の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたそうですが、それはかなわぬ望みだったようです。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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