2月27日 <不平等条約の日朝修好条規に調印(1876年=明治9)>

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1876年(明治9)のこの日、日本と李氏朝鮮との間で日朝修好条規に調印されました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

江戸時代の末期以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否していました。そのため、日本国内では武力を背景に朝鮮に強硬姿勢で対応すべきとする征韓論が高まりました。

 

この征韓論は、当時の政府に強い不満を抱き、朝鮮への積極的進出に期待をかけ、それを望んでいる士族層をなだめて、その不満の矛先をそらす目的もありました。しかし、1873年(明治6)9月に、岩倉具視とともに欧米列強の先進ぶりを視察して帰国した大久保利通・木戸孝允らが、国内の体制を整備することを優先べきとしたため、一旦征韓論はボツになったのです。このボツの際に、西郷隆盛ら征韓論の参議が一斉に辞職してしまいました。これは、「明治6年の政変」と呼ばれる、ご説明する機会があると思います。

 

その後、なお朝鮮を開国させるきっかけをつかもうとした日本は、1875年(明治 8)、朝鮮沿岸に軍艦雲揚(うんよう)を派遣し示威行動を行いました。朝鮮の沿岸で測量をしたのです。さらに、同艦の船長が首都漢城(現在のソウル)に近い漢江河口の江華島(こうかとう)にボートで近づいたところ、同島の砲台から砲撃を受けてしまったのですね。それに対して雲揚が反撃を加え、砲台を破壊し、近くの島に兵員を上陸させて永宗城(えいそうじょう)を占拠しました。これが江華島事件です。

 

この事件がもとで、日本は朝鮮に圧力をかけ、翌1876(明治 9)年のこの日、日朝修好条規を結んだのです。少し不思議なのは、この条約は調印そのものは2月27日なんですけど、条約締結の日付は2月26日で、効力の発行日も2月26日なんですよね。

 

この12款からなる条約の締結によって、朝鮮は釜山(プサン)、仁川(インチョン)、元山(ウォンサン)を開港し、片務的な領事裁判権や関税免除を日本に対して認めました。日本は朝鮮に対して不平等条約を押し付けたのでした。と、同時に、日本は朝鮮を一つの独立国家として認め、清國が主張する朝鮮に対する宗主権を否定するスタンスを取りました。

 

この一連の行動には元ネタがあるのですよ。その20年程前に、ペリー来航から開国までの経験がベースにありました。当時の外務卿寺島宗則(てらしまむねのり)がアメリカ公使ビンガムに頼んで、ペリーのアメリカ政府への復命書を借り出して参考にしています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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